▼「伝える」ということに伴う葛藤
(特に被害者が存在する種の)何かを語る際の言葉選びがドライなのは、その言葉選びをして語った当人の認識とはあまり関係なしに、それを読んだ側が「ドライに表現されるようなものは重大じゃないってことだろう」と認識することに繋がることが予測されるのが当事者に相当なストレスを引き起こすが、
その反動か、ドライに表現されたものと差別化するようにひたすら感情や良心に訴えるエモが虚構を飛び出して傲慢にも現実世界の描写にまで及び、それも結局思考停止を招くことになっているようだし問題の消費化によって当事者は一層の屈辱に悩まされることになる。…というのが常識になりつつある一方、
(例えば被害者が存在する話題について)このくらい深刻だということをエモを借りずに表現するためには、聞かせたい相手の中にある「まあこんなものだろう」を徹底して破壊するほどの強さで表現する必要がある気もして、しかしそれは単純に表現として暴力的なので受け入れられない可能性が高いゆえに、
個人でできる表現としては、訴える言葉ではなく芸術(含文芸)で表現するのがある種「現実的」な選択なのだろうと感じる。が、それを「芸術に触れるような人」の間だけで共有されていても足りない。そこを乗り越えるには、事実そのものを映像または映像的な文章で伝えるドキュメンタリーしかないのか。
その場合、逆に作り手は自己を表現から消さなければならないように思われて、(その作品を作ったということに作り手の並々ならぬ思いがあることは誰しもわかることだが、)己の思い自体を表現しないでいるということは自分が当事者である場合には相当難しい気がする。
よって適切に代弁できる作り手に託すか、芸術として表現するか。なお「声をあげる」は、基本的に政治に訴えるもので、「声をあげる」ということそのものが必ずしも市井の人々を変えるにあたって最善とはならず(とはいえ無駄ということでは全くない)、目的とすべきものがそもそも違っている感がある。
なんにせよ何かしら伝える努力は続けるにしても、何をどうやっても伝わらないものは伝わらない、運良く伝わった時でさえ自分の期待と比してあまりにも僅かにしか伝わらない、という現実は避けられない。――ということを私はまだ受け入れられない。
「ドライに表現する」ということが、その表現の慎重さに反して体感としての理解を邪魔する可能性があることが、何かしらの表現者でありたい私の頭を悩ませているし、実際に自分に近い何かをドライに表現された時に感じる一種の恐ろしさは拭いがたい。
一方、例え話を駆使して「わかりやすく」語ったときの、そして相手が「わかった」かのような感触を得てしまったときの、実態との乖離に打ちのめされることもある。かえって、安易に「わかった」を引き起こしてしまった罪すらそこにある。わかりやすく語れる人間がわかりやすく語ることは果たして善か。
「全く伝わらないよりは一部でも伝わったほうがいい」は、伝わった相手がその後も己の認識を更新しようとし続けるならばという但し書きが付きそうだと感じている。が、しかし相手がどうであるかを勝手に判断して情報をコントロールしようとするのは(時に必要であっても)ある種傲慢であるとも感じる。
「判断して」の部分に、主体が全知全能でないゆえの不完全さがどうしても残り、そのことを忘れると直ちに傲慢な態度になってしまう。判断が的確であるうちは賢明なのであっても。(そうすることが賢明だという話が広がれば、広がりに比例して的確でない判断が増える。)
「想定していない聞き手」「想定していない読み手」という、視野の外にありながらしかしその存在感・影響力は全く馬鹿にならない規模の存在たちの関心をどう掻い潜るか問題、も常にある。文脈を無視した発信が、元の話者と対等かのように(むしろ元の話者より強く)扱われる場は普通に恐ろしい。
何もできないような気がしてきた。