note|Twitterでは自由に語れなかった
Twitterは自由なのに、自由に語れるわけではないということについて。 自分の考えを言語化して発信するということは元来好きなはずなのに、それが一応自由に出来る場で、実のところ自由には発信できなかったのです。なぜなら、単純な話、「共通の話題について共感し合う場」にそういったことは馴染まないからです。
つまり、言論的なTLを意識的に構築しない限り、持論展開は空気が読めていないようで馴染まないが、
私が何か思いを抱く時、それは大抵「共通の話題について共感し合う」ということをしている間に「ちょっとしたズレ」のようなものを感じたことが発端
であるがゆえに、
私が考えを伝えたい相手というのは必ずしも私同様に自分の考えを発信したいような人ではなく(つまり同類の仲間に話をしたいのではない)、
私は「その場にいる自分と違う考えの人」に向けて話したかった。
noteでもどんな人に見られるのかはわからないわけですが、Twitterや一般的なブログよりは何らかのクリエイトや生き方というものに関心のある人が多いのではないか しかし当時はこう書いたが、この実感はだいぶ薄れている。
Twitterとの結びつきが想像以上に強いために、関心の程度によるフィルターがそれほど働いていないと気づいた。つまり読者の種類と量が、自分が想定するようなものではない可能性が高い。
結局は、個人ブログにTwitterから導線を引くのが現実的ではなかろうか。 また、Twitterは同じ方向性に生きる人と繋がるためのアカウントがあったほうがやはり良いだろうと考えてそういうアカウントを稼働させることにした。
自分とは明らかに違う人の認識を変えようとか、相手の知らなそうなことを知らしめてやろうとか、そういう大それたことを考える前に、わかり合える人と穏やかに影響し合う機会を作ったほうがきっと良い。