WordやExcelをデザインツール的に使うのが日常だった
nora.iconKakauの操作感は明らかに初めてのものだけど、操作して出来上がるものには既視感があって、なんだろうなあと思っていたけどシンプルに「昔Wordでやっていたこと」だった。Wordとの比較的な話を何度か見ていたのに今気がついた。 nora.icon紙という限られた範囲を有効に使うべく、セクション区切り段区切りをあれこれしながら表をあちこち埋め込んだりカーリーブレイスは図形挿入とテキストボックスでそれらしく見えるようにしたりでどうにかしていたんだけど、つまりKakauに備わっているものを当時頑張って手作業でレイアウトしていた。
nora.iconデザインというものについてはどこまでも素人だけど「自分なりのレイアウト」にかなり神経を注いでいて、何が何の隣にあるかとか何色のテキストボックスを使うかとか色々考えるのが好きだったのに、Officeソフトを離れるとそういうことがあんまりできなくて自分を情報処理マシン化していた感じがある。
なんか自分の中での情報の並びがすごく線形になっている感じがする。
Kakauと出会ったからといって、元の感覚が瞬く間に取り戻せるわけではない感じがする。使っているうちに勘が戻ると思うんだけど、今現在は昔のようにちゃかちゃかとやれない。
率直に言って「嫌だなあ」と思った。アイデンティティを知らぬ間に喪失していたかのような気分。
nora.icon要は、「配置させろ!!!💢💢💢」というストレスがずっとあったわけですね。そこで現れたKakauですよ。素晴らしいです。あくまで文章データを扱いたいものなので、デザインソフトで見た目をレイアウトすれば良いっていう話じゃないんですよね。そういうことではなくてちゃんとテキストを扱いたい。
nora.iconOfficeソフトを私的な情報を扱うものとして日常使いしなくなってしまった要因は99%「スマホとの互換性」で、アプリに頼ってある程度はWordとExcelをスマホから見ていたけど、やはり少しの面倒臭さ不便さに負けてしまっていた。実際PC開けない生活が続くとスマホからのアクセスが必要になってしまい…。
nora.iconスマホを使うことを前提にしたことで、まず「情報には常にアクセスしたい」という気持ちが強化され(PCを開いた機会にやろ~というのんびりさは失われた)、スマホを通して閲覧・編集できることを絶対視するようになり、情報管理のレイアウト要素はツールに丸投げの生活になっていたわけだ。味気ない。
nora.iconWordやExcelをデザインツール的に使うのが日常であった私としては、それらを個人的な用途で弄るのは日曜大工のようなものであったはずなのに、情報管理に関してはなぜか「週末やれることが楽しみな趣味」という位置づけになることがなく、毎日即座に触れないという理由でただ習慣が消えていった。
nora.icon今はPCに触る時間が長いのでそういう面での障害はなくなったけど、脳がスマホ化していて(?)、元の習慣にそのまま戻れないでいた。実際、スマホからアクセスできる類のツールに情報が収まってしまっているので、そこからOfficeソフトには移りづらいというか。そこで現れたのがKakauですよ(2回目)。
nora.iconスマホですいすい編集できるアプリたちというのはもちろんそのすいすい感が大変快適なので、Wordの「なんか微妙に挙動がわからん」みたいなストレスとおさらばできて嬉しかったこともあり、PC生活になろうとそのままわけわからなさの待っているWordに戻る気になれなかったのもある。
nora.iconWordの箇条書きまわりのわけわからなさよ。印刷物をデザインするにはいいけど、動かして頭の中を活性化するとかにはいまいち向かない。細かい仕様を理解できない自分が悪いのかもしれないけど、予期しない挙動に遭遇すると、「萎える」という感じがする。
nora.iconテーマもわけわからない(というか必要な労力が多い)し、この先使いそうもない機能も多すぎるし、力技をなんでも受け入れてくれる懐の深さはめっちゃ好きだけど、一方で自分の頭がスマホ化してこっちが狭量になってしまったんだよね多分ね。
nora.iconなんか自分の人生と「情報」の関わりがワーッと整理されていった感じがする。あんなに楽しんでいたのに忘れていたみたいなことがたくさんあった。やっていた当時は自分にとって何も特別なことではなかったわけで、その後の人生で掘り返す必要があるとは思ってすらいなかった。
nora.icon子どもの頃、パソコンはあるけどインターネットに繋がっていないという期間が結構長くあって、その間ずっとWordとExcelをおもちゃ兼らくがき帳にして遊んでいたわけです。機能の習得が楽しかったわけではなく、「手書きでは難しい綺麗さを作れる」ということが私にとってはものすごく大事だった。
「手書きでは難しい綺麗さを作れる」ということはつまり、前提として手書きでそういうものを作ろうとしていたことを意味する。
手書きで書いても綺麗にならないことを予見していたので(当時は字も汚かった)、実際にそういうノートをバリバリ作っていたわけではないけど、PCを使う前から「こういうことができたらいいのになあ」というビジョンがあった。
中学の頃はレイアウトが美しい参考書をノートにそのまま書き写していた(家庭学習のノルマの消化として)。
そういえば数学のノート(横罫になって以降の話なので多分「算数」ではなく「数学」)は方眼紙を別に用意してきちんと図表を作って貼っていたし、方眼紙を使わない時は定規できっちり何mmとか測って図を作っていた。
定規で測るのは教師にそうやれと言われたからそうやっていた気がするけど、中高通してそうやれている生徒が多数だったとは思えない。
他の生徒がどのくらいやれていたかはどうでもよいとして、そうするのが私には楽しかった、というのが今大事。
その図表自体を、ノートのどの位置に描くかということに結構こだわっていた記憶がある。
余白の気持ちよさとか。
無駄に大きくせずにコンパクトに収めるとか。
国語のノートは縦書きだったわけだけど、縦位置のインデントをきっちり決めてやっていた。これは自分独自の工夫だったはずだし、結構神経質にやっていた記憶がある。
インデントの位置が正確にわかるように線を引いた下敷きを用意していた。
罫の高さが同じでも、メーカーごとに上下についてるガイドの幅が異なるので、ノートについているガイドとは無関係に同じ幅になるようにしていた。
一方でノートのメーカーには全然こだわっていなかった。親が買ってきてくれたものを特に不満なく使っていたし、色々な表紙があるのは面白いと思っていた。
けど、背表紙に正確に同じ高さにラベルをつけて並べた時の統一感があるようにしていた。
nora.iconこういう自分の感覚とか経緯が、パソコン持ってたらまあ別に普通なのか、割と独特なのか、私には全く見当がつかないのですが、どうなんですかね。
「独特」とまで言えるかどうかは微妙だけど「別に普通」ではなさそう。
nora.iconなんで見当がつかないかというのは「誰とも全く共有せずに全部自分で見出したルートを進んできたから」なのですが、「まあ誰でも放っておけばそうなる」のか「独りで突き進んでいるのだからそりゃ独特」なのかがわからない。とりあえず身近な友人には似たタイプは多分いないような…。