都市という文化装置
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都市は、文化のさまざまな装置が集積している場所である。あるいは、表現を少し変えて、そうした装置がそこに生活する人々の身体ないしは感覚器官そのものと化している、そんな場所であると言ってもよい。私たちは歴史の中で自らの野生とうまく付き合う方法を、一つの知恵として編み出してきた。その限りで都市という文化装置は野生を締め出すのではなくむしろそれを内蔵しているはずのものである。
私たちの中にあるさまざまな対立や矛盾、それらが互いにけしかけあいながら、しかもそこ深く交通するような様式、そうした様式が人々の生活のあらゆる次元で設定されているときに、そしてそのチャネルが多様であればあるほど、都市は都市らしくなる。その時都市は複数の顔を持つことになる。大人にとって社交の場、あるいは商いの場であり、僧侶にとって信仰と修行の場であり外部の人にとっては名所であり旧跡であるものがそこに住む子供にとってまずは運動場なのである。錯綜した多面体としてのあり方を失った時、都市は命を失う。現代日本の都市を思うとき、いかにも「浅い」印象を受けるのは装備は新しく豊かでもそこに住まう人にとって錯綜した多面体であり得ていないというところに最も大きな理由があるのではないか。
川添登がどこかで書いていたように、例えば台所は超多義的な空間であった。父親にとっては本を読む場所、母親にとっては家計簿をつける場所であり、子供にとっては包丁やら色々な危ない道具、不思議な形をした道具がある場所であった。道路についても同じことが言える。同じ一つの路がいろんな機能を持っていた。交通の場所であるだけでなく、時には子供の遊び場であり、近所の夫婦の井戸端会議の場所であり、老人の散歩道でもあった。自動車の出現はそういう空間の多義性を解体した。 トレードオフではあるけど正負の両面に対して自覚的であるべきだとは思う
できるところから多面的さと向き合っていける
twitter.icon 我が街、Google マップに表示されないほどの粒度で有象無象の喫茶店がそこら中にあるのが間違いなく社会的厚生を底から押し上げている一役になってる感あって良い。井戸端会議の会場がそこら中にある感じ。住民の住民による住民のための。