歩きながら考える
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今回は図書館で借りたものを読んだけど、所有したいと思える内容だった。何回も読み返したい
デカルトは思考の格率のひとつとして、森の中で迷った旅人の例をあげ、一カ所にとまっていたり、あちこちと彷徨い歩いたりしてはならず、たえず同じ方向へと歩き続けなければならない、といっている。「花の都」への道標は歩いて行く間に見つかるかもしれない。
ぼんやり考えごとをしながら歩いていたり、行きあった友人と立ち話をしたりしていると、クルマにつきあたられそうになる。ぼんやりして歩いていたり、往来で立ち話をしたりしているほうがわるいのだ、と一般に思われているが、そうではない。道とはもともと、ぼんやりして歩いたり、立ち話したりするためのものなのである。わるいのはそこに闖入してくるクルマのほうである。
煙草を買う場合、私は自動販売機で買うよりも煙草屋で買うほうがいい。「はい、ありがとうございます」「やあどうもありがとう」。これだけでも人間どうしの会話である。
わかる、コンビニより煙草屋派nolimitakira.icon
私は人混みのなかを歩く。賑やかなところは好きだ。いろいろな人を眺める楽しみがあるからである。初詣に何十万の人出があったり、お祭りに人が集まったりするのもそのためだろう。眺めたり眺められたりすることがすでに人との触れ合いであり、人との触れ合いは楽しいものだからである。
愛煙家の弁
規則は人間のためにあるのであって、規則のために人間があるのではない。
谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』を書いた。これはこれで名著だが、私は逆に「もっと光を」といいたい。省エネルギーとか電気料金値上げとかというと、人はすぐ電灯を暗くしたり消したりすればいいと思いがちだが、その前にもっとよく考えなければならない。よく考えるためには明るい照明と知性の光が必要である。 石の造形
石垣は例外なく美しい。自然石の材質そのものが美しい上に、重く堅い石がたがいに支えあっている緊張感が力を感じさせるからであろう。
石と石のさかい目にセメントを塗って補強してある石垣を塀などに見ることがあるが、石と石のさかい目が見えなくなると、石垣の美しさも消えてしまう。石の重みが堅牢さをうみだしている、その緊張が見えなくなるからである。
石の上に石を積む行為は、自然には存在しない均衡を実現しようとねがう祈りである。
石塔にせよ石像にせよ、また神殿や石垣にしても、石でつくられたものは長い年月の間に風化し、摩滅し、苔むし、また毀れる。しかしそれによって造形の美しさは容易に消滅せず、風化が逆に石に刻まれた精神のしるしをいっそう際立たせる場合が多い。
美しい石の造形は何百年という長い年月のあいだに風化してもなお美しいが、例えば最新型の自動車の美しさは何年もつか。一度こわれればスクラップにするほかないのである。
小さな美術館はいつも閑散としていてまことに気持がいい。そしていつ行っても同じ作品を見ることができる。これが常設美術館のいいところで、絵でも彫刻でも、芸術作品は何度もくりかえし観てそれに親しむことによってはじめてわかってくるものなのである。誰々の大回顧展を一度だけ見るよりも、その画家の傑作一点を何度となく見るほうが私はいい。
来歴がどうあろうと、美しいものは美しい。美しいものを美しいと感じること、そのこと自体は難解でもなければ不明確でもない。われわれは素直にただ感動をかみしめればいいのだ。
われわれの現代の文化と過去の文化、それが何の関係もなく小さな塀ひとつを隔てて隣りあっているというのは、いたるところにあることではあるが、思えば奇怪なことである。何の関係もないということはあるまい。関係がないとしたら、そこに関係をつけ、美しい古いものを現在と未来に生かしていくことがわれわれの責務ではないだろうか。そんな風に私は思ったが、思っただけで難問が解けるものでもない。難問がどうであれ、美しいものは美しい。それはそうだが、美しいものはわれわれが難問にたちむかい、われわれ自身の現実の課題を解決するのを求めてやまないように私には思われる。それが美しいものの力であり生命であるように思われる。