怠惰への賛歌
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仕事には2種類ある。第一は、地球の表面上、またはその近くにある物体の他のかような物体に対する位置を相対的に変えることであり、第二には、他の人々にかようなことをするように命ずることである。第一種の仕事は、快的なものでもなく、受ける報酬もよくないが、第二種の仕事は、快的であり、払われる報酬も高い。第二種の仕事の範囲は、限りなく拡げることができる。即ち命令を出す人々がいるばかりでなく、どんな命令を出すべきか勧告する人々もいる。普通には、二つの正反対の性質の勧告が、同時に二つの組織された人々の集団から出される。これが政治といわれるものである。この種の仕事に必要な技術は、勧告する問題に関する知識ではなくて、納得させるような話し方及び文章を書く技術、即ち広告技術に関する知識である。
ひまこそ文明にとってなくてはならないものであり、昔は少数のもののひまは、ただ多くのものの労働によって出来上がっていた。だが彼らの労働が価値があるのは、勤労がよいからではなく、ひまがよいものであるからであった。そして近代の技術を以てすれば、文明を傷つけることなしに、ひまを公平に分配することも出来そうなものである。
私たちは生産をあまりに重んじすぎるし、消費をあまりに軽んじすぎる。その結果の一つとして、享楽や純粋な幸福には、あまり注意を払わなすぎるようになるし、また生産を、消費者が生産より受ける快楽によって批判しなくなる。
私の考える意味は、1日4時間の労働で生活の必需品と生活を快適にするものを得るには十分であり、残りの時間は自分で適当と思えるように使える自分の時間とすべきだというのである。それで、教育を現在一般の状態よりも一層進歩させ、ひまを賢明に使わせる趣味を幾分か与えることを、教育が目指さなければならないのが、かような4時間労働という社会制度の一つの重要な使命である。この場合、私はいわゆる「ハイブロー(学識ある人)」といわれるようなものを主として眼中においているのではない。
人々は労働を徳とみなす価値観にとらわれたままでいる。所得が生存を保障するに足る水準を十分に超えている場合、その余剰は閑暇として人々に広く配分されなければならない。しかし、資本主義制度の下では、余剰は禁欲を通じて貯蓄となり、それが設備投資に向けられ、所得のいっそうの再生産に当てられる。この制度では、余剰としての利潤を生む活動が望ましいものとされている。
労働が価値を持つのは、働くことが良いことであるからではなく、それによってもたらされるはずの閑暇が、本来の人間的な活動を可能にするからであると考えるべきではないか、とラッセルは言う。閑暇は、かつては支配階級や特権階級のみが享受できるものであった。経済発展のおかげで、今やそれは万人に可能なはずである。ラッセルの怠惰のすすめとは、労働時間を減らし、間暇を遊びと思索に当てることである。彼は言う。労働の道徳は奴隷の道徳であり、もはや奴隷労働は必要ではない、と。彼の提案は一日四時間労働であった。
労働すること以外の人間らしい生活とは何か。ケインズが提唱した問題はこのことであった。ラッセルは「道徳的基準と社会的幸福」(1923年)という別のエッセーにおいて、いっそう体系的な議論をしている。これは産業社会の前途に警鐘を鳴らし、社会の別のあり方のための道徳的基準を提起したものである。彼はその基準を「徳」ないし「卓越」と呼び、次の四つの要素を挙げている。①本能的幸福、②友情、③美の鑑賞と創造、④知識愛。