『肩をすくめるアトラス』を読み終わって。
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ようやく読み終わった
第3部の最後3~400ページぐらいは時間を忘れて没頭していた
多くの人のレビューにもあったように思想云々のインスピレーションを受けたことに違いはないがそのこと以上にアインランドの文調・言葉の数々に、現実世界に対する明快さと曖昧さのグラデーションが程よく気持ちの良い具合に私の中の感覚にぴたりとはまったような感触があった。
この本の訳者、脇坂あゆみさんのあとがきに近いことが記してあった ランドの小説を読むという行為はとてもパーソナルな娯楽だった。漠然と感じていたことが次々と言語化され、くっきりとした輪郭をもって認識され、意味を持ち始めた。それはリアルな哲学体験でもあった。
tkgshn.iconのScrapboxきっかけで下記の記事にアクセスし、興味のままに読み始めたのがきっかけ
すごくありがたい概括nolimitakira.icon
印象に残ったシーンなど
十歳のある夏の日のことを思い出した。あの日、森の野原で、幼馴染の大切な仲間が大人になったらやることを語った。言葉は日差しのようにきつく熱っぽく、彼はうっとり聞き惚れていた。自分は何をしたいのかきかれてすぐさま「正しいこと」と答えた。そして、「きみは————ううん、僕たち一緒に————何かすごいことしなきゃ」とつけ足した。「何を?」と彼女はたずねた。「わからない。探さなきゃ。きみが言ったようなことだけじゃなく。ただ仕事をして暮らしていくだけじゃなく。戦いに勝ったり、火事で人を救ったり、山を登ったり」と彼はいった。「何のために?」と彼女がきいた。「先週の日曜日に牧師さんが、自らのなかで最上のものを求めよって言っていたよ。自らのなかで最上のものって何だと思う?」と彼はいった。「わからないわ」「探さなきゃ」彼女は答えずに目を逸らし、そばの線路を見上げていた。
人生における他のすべての関心を統合する役目としての中心的目的(=すなわち,自らのなかで最上のもの)を持つこと
事務所の窓から鉱山を眺めた日が見えた鉱山が自分のものとなった朝、彼は30歳だった。痛みと同じく、そこまでの道のりもどうでもよかった。自分で定めた目的のために、鉱山で、圧延工場で、製鉄所で仕事をした。憶えていることといえば、周りの誰も何をすべきかわかっていなかったということ、自分には常にわかったということだけだ。
激しさの名残、内側で高まるかすかなおののきは、これから会う男への気持ちではない。それはある冒涜への抗議の叫びーかつて偉大だったものが破壊されたことへの抗議の叫びだった。
放蕩者は精神の純粋な安らぎにたどりつけない
理性の所在が不明だから
「・・・・・・いや、人々に高尚な哲学の領域にまで到達してほしいと望むのはどだい無理なのです。文化を守銭奴の手から奪い取るべきでしょう。文学には国家の補助金が必要です。芸術家が行商人のように扱われ、芸術作品が石鹸のように売られるのは恥ずべきことです」
彼は声をはりあげた。「君と話すつもりはなかった。だが君が望んだのだから言わせてもらおう。私にとって、人間の墜落の形はひとつ。目標を見失うことだ」
「精神?」年寄りの浮浪者がいった。「製造業やセックスに精神は関係ない。それなのに人間が気にかけていることといえばこの2つだけ。物欲————人間が知っていて、気にするのはそれだけだ。我々の偉大なる産業の証————文明と呼ばれるものの唯一の業績として————意図的に、利益目的で、豚のような道徳意識の野蛮な唯物主義者が造ったもの。流れ作業で10トントラックを生産するのに何の道徳もいりはしない」
「道徳って何かしら?」彼女はたずねた。
機械をみるといつも心が躍り、自信が湧いてくるのはなぜだろう?————彼女はおもった。この巨大な物体のなかには、非人間的なものに属する2つの側面、理不尽さと無目的さが清々しいほど皆無だ。モーターのあらゆる部分は「なぜ?」「何のために?」という問いに対する答えを具現化したものだ————彼女が崇拝する精神が選ぶ生涯の歩みのように。モーターは鋼鉄で鋳造された道徳律なのだ。
これらは生きている、と彼女はおもった。これらはすべて生きた力の————この複雑なものをすべて理解し、目的を定め、形を与える精神の働きの物理的な形なのだから。彼女は一瞬、モーターが透明になり、その神経組織の網がみえた気がした。電線と回路全体よりも入り組んでおり、それらよりも重要な接続網、これらの部品ひとつひとつを最初に造った人間の頭脳の理性の回路だ。
これらは生きている、と彼女はおもった。だがその魂は遠隔操作でこれらの機械を動かしている。魂はこの偉業に匹敵する能力をもつ人間ひとりひとりのなかにある。地上からその魂が消えてなくなれば、モーターは止まる。なぜならそれがすべてを動かす力————いずれ原始の泥になる床下の石油ではなく————寒さに震える野蛮人が住んでいた洞窟の壁の染みの色に錆びるスチールの筒でもなく————生きた精神の力————思考と選択と目的の力だから。
「何なんですか、タッガートさん? あなたが欲しいものって何ですか?」
「ああ、まただ!『何ですか?』とたずねた瞬間に、何もかもに烙印を押して数字にしなきゃいけない無骨で物質的な世界に逆戻りするんだ。私は唯物論的な世界の言語では表現できないことについて話している・・・・・・人には絶対届かない精神の高尚な領域だ・・・・・・そもそも人間の業績が何だっていうんだ? 地球は宇宙をぐるぐるまわっている原子にすぎん————太陽系にとって、あの橋が何の重要性をもつというんだ?」
「ほらね、それが良心的な人たちの残酷なところ。あなたにはわからないのよ————わかる?————本当の献身は、誰かを幸せにするために喜んで嘘をつき、騙し、偽ることだと私が答えたら————相手が好きになれない現実を、その人が望むように作り変えることだって」
「いや」ゆっくりと彼はいった。「わからないだろう」
「本当にとても簡単なことなの。美しい女性に美しいと言って、その女性に何を与えたことになるかしら? それは事実以上の何物でもないし、あなたには何の犠牲も払ってないわ。だけど醜い女性に綺麗だと言ってあげれば、あなたは美の概念を墜落させてまで大きな敬意を払ったことになるの。女性を美徳ゆえに愛するのって意味ないわ。女性がそれにふさわしければ愛は対価であって、贈り物じゃないの。だけど悪徳ゆえに愛するっていうのは、女性がそれ相応のことをしたわけでもなく値もしない本当の贈り物。悪徳ゆえに愛するのは、その女性のためにすべての美徳を汚すこと————それこそが愛の本当の証なの。なぜってあなたは、自分の良心と、理性と、誠実さと、かけがえのない自尊心を犠牲にするんですもの」
行動の不可能性がこの嫌悪感を自分に与えているのか、それとも嫌悪感が行動への欲求を失わせているのかはわからなかった。両方だ、と彼はおもった。欲求はそれを成熟させるための行動の可能性を前提とする。行動は到達に値する目標の存在を前提とする。もしも唯一ありうる目標が、銃をつきつける男から気まぐれに移り変わる情実行為を誘うことだけならば、行動も欲求も存在しえない。
ならば人生は?————彼は無頓着に自問した。人生は、動きとして定義される。人生は目的ある動きだ。目的も動きも否定された人間のありようとはいかなるものか? 鎖で繋がれながらも呼吸を続け、到達できたかもしれぬ可能性の素晴らしさを目にしては「なぜ?」と叫ぶばかりで、唯一の説明として悩むことさえ面倒だった。
私は自分の利益のためだけに働く。それは私の製品を必要とし、それを好んで購入する人びと、購入できる顧客に売って得る利益だ。私が顧客に得をさせるために損失を覚悟で生産することはないし、顧客が私に儲けさせようと損をしてまで購入することもない。私は顧客のために自分の利益を犠牲にはしないし、私のために顧客が自分の利益を犠牲にすることもない。われわれは対等な立場で、合意によって、相互利益のために取引をする。こうして稼いだ1セント1セントを私は誇りに思う。私は金持ちであり、全財産を誇りに思う。私は汗を流して、自由な交換のなかで、取引に関わる全員との自主的な合意を通じて金を稼いだ。それは働き始めたときには私の雇用主との、いまは私の下で働く者たちと、私の製品を買う人びととの自主的な合意だった。きみたちが堂々とたずねようとしない質問すべてに答えよう。私は従業員の仕事の価値以上の給料を払いたいと思っているだろうか? 思っていない。顧客が喜んで支払う金額を下回る代金で製品を売りたいと思っているだろうか? 思っていない。損失を出して売ったりただで与えたりしたいと思っているだろうか?
これが悪いことだというなら、きみたちの基準に従って、私を好きなように始末しなさい。これは私の基準だ。私は、すべて正直な人間がそうあるべく自分で生計をたてている。自分が生きているという事実と、自分の生活を支えるために働かなければならないという事実を罪として受け入れることを私は拒否する。そうして働くことができる、人より上手くできるという事実を罪として受け入れることを、私は拒否する。自分がたいていの人間よりもそれをうまくできるという事実————私の仕事に隣人の仕事よりも高い価値があり、より大勢の人間が私にすすんで代金を支払おうとするという事実を罪として受け入れることを私は拒否する。これが悪だというなら、せいぜいそうとして利用したまえ。公益に有害だと社会が言うなら社会に私を破壊させたまえ。これは私の規範であり————別の規範を受け入れるつもりはない。きみたちが望むべくもないほどの善を私は同胞にもたらしたということもできる。だが言うまい。私は他人にもたらした利益によって自分が生きていく権利の承認を求めはしないし、他人への利益をかれらが私の財産を押収したり私の人生を破壊したりする正当な理由としても認めないからだ。他人への利益が自分の仕事の目的だとは言わないでおこう。私自身の利益が私の目的だったし、自分の利益を放棄する人間を私は軽蔑するからだ。きみたちが公益に役立っておらず、人間を生贄として誰かが利益を得ることはなく、きみたちが一人の権利を侵害するときはすべての人間の権利を侵害し、権利のない生き物の集団である公は破壊の道をたどる運命にあるということもできる。餌食の尽きたすべてのたかり屋と同じく、きみたちには普遍的な荒廃の結末しかありえないということもできる。そう断言することもできるが、しないでおこう。私が挑戦しているのは善を成し遂げられるというのが真実であり、それで私の血を代償として生き延びようとする生き物のために己を生贄にすることを求められたならば、もしも自分の利益とは関係のない、それ以上の、それに反する社会の利益に仕えることを求められたならば————私はそれを拒否する。もっとも軽蔑すべき悪として私はそれを拒否し、全力でそれらと戦う。たとえ1分とたたずに殺されることがわかっていても、全人類を相手に戦う。私の戦いと人間が生きる権利の正当性について完全な自信をもって。誤解のないようにしておこう。いま、公の善が犠牲者を必要とするというのがみずから公共と名乗る同胞たちの信条ならば、聞くがいい。公共の善なんかないほうがましだ! そんなものに肩入れするのはまっぴらごめんだ! ハンク・リアーデンによる裁判でのスピーチから抜粋,本当に大好きなシーンnolimitakira.icon*5
「誰もがくだらない仕事なんてものがないことを知っているからね。それをやりたがらないくだらない人間がいるだけで」
「あなたは荒野に埋もれている」彼女は悲しげに言った。「そして200バレルの石油を生産している。世界をそれで溢れさせることもできたというのに」
「何のために? たかり屋に燃料をやるためにか?」
「いいえ! あなたにふさわしい財産を築くために」
「だが俺は世間にいたときよりもいまの方が裕福なんだ。財産とは人生を拡大する手段に他ならない。それには二つのやり方がある。より多く生産するかより早く生産するか。俺がやっているのはそちらなんだ。つまり時間を作っているんだ」
「どういう意味?」
「俺は自分に必要なものをすべて生産しながら、手法を改善しつつある。そうして節約する1時間は俺の人生に加えられた1時間だ。あのタンクを満たすのに以前は5時間かかった。今は3時間ですむ。節約された2時間は俺のもの————俺に与えられた5時間ごとに2時間分ずつ墓を遠ざけるかけがえのない自分の時間だ。それはひとつの仕事から解放されて別の仕事に投資される2時間————さらに仕事をし、成長し、前進するための2時間だ。それが俺のためている貯蓄口座なんだ。外界にはこの口座を守れる金庫室のようなものがあるかな?」
「でも前進する余地はどこにあるの? あなたの市場はどこにあるの?」
彼はくつくつ笑った。「市場? 俺はいま利益ではなく、効用のために働いている。たかり屋の利益ではなく、自分の効用だ。俺の人生をむさぼり食う者たちではなく、豊かにする者たちだけが俺の市場だ。消費する者ではなく、生産する者だけが誰かの市場になりうる。俺は人食い人種ではなく、命に糧を供する者たちと取引をする。石油の生産に要する効力が少ないほど、必要なものと引き換えに石油を交換する者たちに求めるものは少なくてすむようになる。俺はかれらが1ガロンの石油を燃やすごとに、かれらの寿命をそれだけ余分に延ばしてやることになる。しかも相手は俺のような人間だから、自分が作るものをより早く作る方法を考案し続ける。だからその1人1人が、俺の買うパンや衣服や木材や金属で俺の寿命を1分、1時間、1日とひきのばしてくれるわけだ」————彼はゴールトを一瞥した————「ひと月電力を買うごとに1年を。それが市場であって、俺たちの仕組みはそうなっている。だが外の世界の仕組みはそうじゃなかった。あちらでは俺たちの日々と人生とエネルギーをやつらがどんなドブに流しこんでいたことか! 底も未来もない無償のものの下水道に! ここでは失敗ではなく業績を、必要性ではなく価値を交換する。互いに自由でありながら、共に成長しているんだ。ダグニー、財産だって? 自分の人生を所有してそれを成長につぎこむことよりも素晴らしい財産があるだろうか? 生きているものはみな成長しなければならない。じっと同じ場所にとどまっていることはできない。成長するか滅びるかなんだ。ほら————」彼は思い石の下から必死に上に伸びようとしている植物————不自然に伸びようと捻じ曲がっているふしだらけの長いシダを指した。いまだ形をなしていない葉っぱの残骸は黄ばんで垂れ下がっており、力の尽きかけた緑の若い枝が1本、懸命に、だが不適切に太陽の方向に突き出ている。「あれが地獄でかれらが俺たちに対してやっていることだ。俺がそれに屈するのを想像できるか?」
「いいえ」彼女は小声で言った。
人が同意するのは難しいと言われている。だが双方が、どちらも他方のために存在するのではなく、理性が取引の唯一の手段であることを道徳律としていれば、それはじつに容易なことだ。
「フランシスコ」彼女はささやいた。「それがわかっているの?」
「もちろん。いまならわかるだろう? ダグニー、あらゆるかたちの幸福はみなひとつのものであって、あらゆる願望は同じモーターに動かされている。唯一価値のあるものへの、すなわち僕たちという存在の最高の可能性への愛によって、あらゆる偉業はその表現なんだ。まわりを見渡してごらん。どれだけのものがここで、遮るもののない大地で僕たちに開放されているかわかる? どれくらい自由に僕が行動し、経験し、達成できるかわかる? そのすべてが僕にとってきみが意味するものの一部だと————きみにとって僕がその一部であるのと同じように。そして僕が建てた新しい銅の製錬所を賞賛するきみの笑顔を見れば、それはベッドできみの隣にいたときに感じたことの別の形なんだ。これからもきみと寝たいと思うかって? たまらなく。そうする男を羨むかって? もちろんだ。だがそれがどうしたっていうんだ? ただきみがここにいて、きみを愛していて、生きているってこと————それはこんなにも素晴らしいんだ」
「ミス・タッガート、あなたほど私の作品を大切に思っている人間が何人いるでしょう?」
自慢するでもへつらうでもなく、ただ関連のある厳密な価値への非個人的な献辞として、彼女は「多くはいません」とだけ答えた。 「それが私の求める支払いなのです。払える人間は多くはいません。つまりあなたの楽しみじゃない、感情でもない————感情なんか押し付けられてたまるもんですか————つまりあなたの理解と、あなたの楽しみがわたしの楽しみと性質を1にしており、それが同じ根源、すなわち、あなたの知性と、曲を書いたのと同じ価値基準によってそれを判断することのできる頭脳の意識的な判断からきているという事実————つまり、あなたが感じたということではなく、私が感じてほしかったことを感じたという事実、あなたが私の作品を賞賛するということではなく、私が賞賛されたかったことのために賞賛するという事実なのです」彼はくすくすと笑った。「ほとんどの芸術家には、賞賛されたいという願望よりも強い感情が1つだけある。うける賞賛の本質をはっきりと知る恐怖です。だがそれは私には縁のない恐怖だ。私は自分の作品や自分が求める反応について自分を欺きはしない————どちらも大切すぎますから。理由もなく、感情的に、直感的に、本能的に————あるいは盲目的に賞賛されたいとは思いません。いかなるかたちであれ、見せるべきが多すぎる私は盲目をこのみません。耳についても同様です。伝えたいことが多すぎますから。人の心ではなく————頭によってのみ賞賛されたいのです。ですからその貴重な能力のある客を見つけたとき、私の演奏は互いに利益をもたらす交換になる。ミス・タッガート、芸術家は商人なのです。あらゆる商人のうちでもっとも冷徹な。私の言うことがおわかりかな?」
私は良い芸術作品に出逢えたとき、毎度同じ反応として「良い仕事」をしてるなと感動がやってるくるんだけど、その良い芸術は「良い仕事」であるという話がこれなんだよなnolimitakira.icon*2 その人の純粋な魂があるから、その人が紡いできた文脈があるから、その人が見てきたものからしか生まれない感情があるから、その人が犠牲を払ってきたから手に取れる何かがあるから、その人だから語れるものがあるから
「ミス・タッガート、あなたには、なぜ私が本物のビジネスマン1人のためなら現代のアーティスト30人を引き換えにしてもいいと思うかおわかりになりますか? なぜ私には、モート・リディーやバルフ・ユーバンクのような者たちよりも、エリス・ワイアットやケン・ダナガー————じつはあの人は音痴なのですが————と共通点が多いかを? 交響曲にせよ炭坑にせよ、すべて仕事は創造する行為であり、同じ根源から来ています。つまり自分自身の目でみるという神聖な能力————すなわち、合理的認識をおこなう能力————すなわち、かつて見えておらず、関連づけられておらず、創られていなかったものを見て、関連づけて、創る能力です。交響曲や小説の作者に特有と言われているその輝かしい先見の明————石油を利用し、鉱山を経営し、電動機を造る方法を発見した男たちを動かした能力を、人は何だと考えているのでしょう? 音楽家や詩人の内側で燃えるといわれている神聖な炎————自分が開発した新しい金属のために、これまで飛行機の発明家や鉄道の建設家や新しい細菌や新大陸の発見者がそうしてきたように、全世界を敵にまわす実業家を動かすものは何だと人は考えているのでしょう?・・・・・・真理の探究のための妥協なき献身ですか? ミス・タッガート、現代の道徳主義者や芸術の愛好家が芸術家の真理の探究者のための妥協なき献身について語るのをお聞きになったことがありますか? そのうちで地球がまわると言った男の行為よりも、あるいはある鋼鉄と銅の合金には一定のことをなすことを可能にする特性があり、それが在りかつ為すと言った男の行為よりも偉大な献身の例があれば教えてほしいものです。そして社会にその人物を拷問にかけさせるか、破滅させるかしてごらんなさい。彼が自分の思考の証について嘘の証言をすることはない! ミス・タッガート、この精神と勇気と真実への愛の子なんです————自分はおのれの芸術作品が何であり、いかなる意味をもつかについてはこれっぽっちも考えのない芸術家であり、『本質』や『意義』などといった粗野な概念には抑圧されておらず、より高き神秘の媒介者で在り、作品をなぜどうやって作ったのかも知らず、それは酔いどれのへどのように自然に出てきただけで、考えず、あえて考えるほど墜落することもなく、ただそう感じるのであり、しなければならないのは感じることだけだから、精神異常者の極地に限りなく近づいたと誇らしげにふれまわるぐうたらではなく! 意志薄弱な、口をぽかんとあけて、胡散臭い目をして、よだれを垂らして、ぶるぶる震えて、ふやけたままのろくでなしは感じるのです! ひとつの芸術作品を生み出すためにいかなる規律と、いかなる努力と、いかなる頭脳の緊張が必要であり、明晰な人間の知力にどれほどたゆまぬ労苦が強いられなければならないかを知っている私————それが鎖につながれた囚人の屋外労働を休息に見せるほどの労働と、いかなる軍隊訓練のサディストも課せないような過酷さを必要とすることを知っている私は————どんな高尚な神秘の生きた媒体者よりも炭鉱の技師をとります。技師は地下で石炭貨車を動かしつづけるのが感情ではないことを————そして何が貨車を動かしつづけるのかを知っています。感情ですって? ええ、我々だって感じますとも。技師もあなたも私も————実際、感じることができるのは我々のような人間だけであり————しかも我々は感情がどこからきているのかを知っています。だが知らないまま、あまりにも長く知ることを遅らせてしまったのは、自分の感情を説明できないと主張する者たちの本質でした。我々はかれらが感じているものが何なのかを知らなかった。いまそれを知りつつあるのです。高くついた過ちでした。そしてもっとも罪深い者が、人一倍過酷な代償を払うことになる————しかるべくして、誰よりも罪深いのは、いまや真っ先に抹殺されるのは自分であり、唯一の援護者の破壊に加担することで自分を抹殺する者の勝利を手伝っていたと知ることになる真の芸術家たちです。自分が人間のもっとも高邁な創造的精神の代表者であるという自覚のないビジネスマンよりも痛ましい愚者がいるとすれば、それはビジネスマンが敵だと考える芸術家なのですから」
「もし人が、非合理的なものを可能なものの視野におかず、破壊を実用的なものの視野におかなくなったとすれば、事業においても、貿易においても、もっとも個人的な欲望においても人と人との間には利益の衝突などなくなると。現実が偽るべくらざる絶対であり、嘘が役に立たず、稼いでもいないものを得ることはできず、値しないものを与えることはできず、実存する価値の破壊は実存しない価値をもたらさないと人が理解すれば——衝突も犠牲の要求もなく、人は誰も他人の目的の脅威にはなりはしない。より優れた競争相手を阻止することで市場の拡大をねらうビジネスマン、雇用主の富の分け前にあずかりたがる従業員、ライバルのよりすぐれた才能に嫉妬する芸術家はみな、存在外の事実を求めているのであり、かれらの願望の手段は破壊だけです。かれらがその手段に訴えても、市場や財産や不朽の名声を得ることはなく、ただ生産や雇用や芸術を破壊するだけだ。生贄となる被害者の意思にかかわらず、非合理的なものへの望みがかなうことはない。にもかかわらず人は不可能なことを望んでやまず、破壊願望を失わないでしょう。自己破壊と自己犠牲が受益者を幸福にするのに実用的な手段だと教えられているかぎりは」
「ダグニー、あなたはどうやって? どうやってボロボロにならずにいることができたのです?」
「たった1つの掟を守ることよ」
「どんな?」
「自分自身の精神の判決の上には何も————何もおかないってこと」
「あなたはひどいめにあってきた・・・・・・たぶんわたしより・・・・・・わたしたちの誰よりも・・・・・・どうして耐えてこられたのです?」
「命は何よりも大切なかけがえのないもの、戦わずに投げだすには尊すぎるものだから」
まるで何年分もの興奮を取り戻そうともがくかのような、はっと思い当たって愕然とした表情がシュリルの顔に浮かんだ。「ダグニー」————彼女の声は囁きだった——「それは・・・・・・それが子どものころ感じていたこと・・・・・・それこそ自分について一番よく覚えていること・・・・・・そういう感情・・・・・・失くしたことはなくて、いまもあって、いつもあって、だけど大人になるにつれて隠さなければならないと思うようになって・・・・・・そういう気持ちを何と呼べばいいのかわからなかったけれど、たったいま、あなたがそう言って、それがあの気持ちだったから驚いたの・・・・・・ダグニー、自分の命についてそんなふうに感じるってこと————それは善いことなの?」
「シェリル、よく聴きなさい。その気持ち————それが求めて意味するすべてが、この世で何よりも崇高で尊い唯一善いものなのよ」
1人の人間を選び、おのれの人生に視野の焦点として、常に関心の中心においておくことが愛することだとすれば、彼女は確かに彼を愛していた。だが、彼にとって愛が自分自身と存在を祝うことだとすれば、自己を嫌悪し、人生を憎む者にとっては、破壊の追求がたった一つの愛のかたちであり、その同等物なのだ。
人間である諸君にとって、『生きるべきか死ぬべきか』という問いは、『考えるべきか考えざるべきか』という問いと同義なのだ
みずからの意識による存在にはいかなる自動的な行動の経路も存在しない。人間には行動を導く価値規範が必要だ。『価値』とは人が獲得して守るために行動するもののことであり、『美徳』とはその価値を獲得して守る行為のことである。『価値』は、誰にとっての何のための価値か、という問いへの答えを前提とする。『価値』は基準、目的、ある選択肢を前にした際の行動の必要性を前提とする。選択肢のないところに価値観はない。
人は合理的な存在といわれてきたが、合理的でいるかどうかは人自身が決めることだ。人には本来、合理的な存在でいるか、自己破壊的な動物になるかという選択肢がある。人は人になることを選ばなければならない。人生に価値を見出すことを選ばなければならない。生計を立てていくことを選ばなければならない。そのために必要な価値を発見し、美徳を実践することを選ばなければならない。
選ぶことによって受け入れた価値規範が道徳律だ。
私の話をいま聞いている諸君はいかなる人間かはともかく、私は諸君の内側の墜落していない人間性の名残、諸君の知性の名残に話している。そしてこう言おう。理にかなう道徳、人間に適切な道徳は確かに存在し、人間の生命がその価値基準だ。
何世紀も前、史上最高の哲学者であった人物が、存在の概念とすべての知識の原則を定義する公式を述べた。AはAである。ものはそれ自身である。諸君は彼の命題の意味を理解したことがない。私がそれを完成させよう。存在とはアイデンティティ(独自性)であり、意識するとは独自性を認識することである。 諸君が何を考慮するにせよ、物体であれ、属性であれ、行為であれ、独自性の法則は不変である。木の葉は同時に石ころであることはできず、完全に赤でありながら完全に緑であることも、凍てつきながら燃えることもありえない。AはAである。あるいは、より簡潔な言葉で述べるならば、食べた菓子は後には残らない。
人間は知識を得ることなしに生きていくことはできず、知識を得る唯一の方法は理性だ。理性は感覚によって提供されたものを知覚し、認識し、統合する機能だ。感覚の仕事は人に存在の証拠を与えることだが、それを認識する仕事は理性に属し、感覚は人にただ何かがあることだけを告げるのであり、それが何であるかは知性が判別しなければならない。
人間の頭脳だけが、複雑で、精緻で、極めて重要な認識の過程である思考をおこなうことができる。人間自身の判断だけが、その過程を導くことができる。人間の道徳的誠実さだけが人の判断を導くことができる。
思考はすべての美徳に先立つ人間の唯一基本的な美徳である。根本的な悪徳、諸悪の根源は、諸君が実践しながらも何とか認めないでおこうとする名状しがたい行為、つまり意図的な人間の意識の停止、思考の拒否である抹消行為——盲目ではなく見ることの拒否、無知ではなく、知ることの拒否だ。それは認識を拒みさえすればものは存在しなくなり、Aは『それがある』という判決を宣告しないかぎりAではないという暗黙の前提によっておのれの知性の焦点をぼかし、判断の責任を回避するために内面を霧で覆う行為だ。考えないことは廃滅の行為であり、存在を否定したいという願望であり、現実を払拭しようとする者を一掃するだけだ。『それがある』と言うことを拒否することで、諸君は『私は存在する』ということを拒否している。判断を停止することで、自分という人物を否定しているのだ。
いついかなる場合にあっても、これは人の基本的な道徳的選択である。考えるべきか考えざるべきか、存在すべきかせざるべきか、AかAでないか、実体か無か。
人間が合理的である限りにおいて、生命は好意を導く前提となる。人間が非合理的であれば、死が行動を導く前提となる。
道徳は社会的なものであり、無人島の人間には必要ないという諸君よ——道徳がもっとも必要とされるのは無人島においてなのだ。代償をはらう犠牲者がいないときに、石が家であり、砂が服であり、食物が原因も努力もなしに口に入り、今日原種をむさぼりくえば明日収穫ができると人に言わせてみることだ。そうすれば現実が然るべくして彼を抹消する。現実が、人生は購われるべき価値であり、考えることが人生を購うにふさわしい唯一価値のある硬貨だと示すことだろう。
生産力とは、人が道徳を受け入れ、生きることを選び——生産的な仕事とは人間の意識が存在を管理し、知識を獲得して人の目的にかなう物体を形作り、アイデアを物理的な形に変え、世界を人の価値観に即して作りかえる不断のプロセスであり——思考を働かせて行えばすべての仕事は創造的であり、他人から学んだ日課を無批判で無感覚にぼんやり繰り返せばいかなる仕事も創造的ではなく——仕事を選ぶのは自分であり、その選択は自分の知性の範囲で存在し、それを超える選択は可能ではなく、それ以下ならば人間的ではなく——他人の目をごまかして自分の知性では手に負えない仕事につくことは、ものまねで場をしのぐびくついたサルになることであり、自分の知力のすべてが要求されない仕事に落ち着くことは、自分のモーターを止め、自分自身に退廃という別の動作を宣告することであり——仕事は人の価値観に到達する過程であり、その価値観への野心をなくすことは生きる野心をうしなうことであり——人の肉体は機械だが、知性は運転手であり、人は業績を道程の目標として、知性の限り運転しなければならず——目的のない人間は下り坂を滑走する機械であり、最初にはまった溝でぶつかる石のなすがままとなり、自分の知性を抑圧する人間は徐々に錆びていく失速した機械であり、先導者に進路を指図させる人間は屑鉄の山に引っ張られていく事故車であり、他人を目標にする人間はどんな運転手も拾ってはならないヒッチハイカーであり——仕事は人生の目的であり、自分を阻止する権利があると思い込んでいる殺し屋は急いで通り過ぎねばならず、仕事の外で見つけるいかなる価値も、それ以外のいかなる忠誠心や愛も、旅路を共にすると決めた道連れでしかなく、みずからの力で同じ方向に進んでいく旅人でなければならない、という事実の認識である。
自尊心とは、自分が自分にとって最高の価値であり、人間のすべての価値同様にそれは勝ちえなければならず——おのれに開かれたいかなる業績のなかでも、ほかのすべてを可能にするのは自分自身の人格の創造であり——人格、行動、欲望、感情は理性が定めた前提の産物であり——人間は生命の維持に必要な物理的価値を産み出さなければならないのと同じく、人生を維持する価値のあるものにする人格の価値を獲得しなければならず——人間はみずから築く富による存在であるように、みずから形成する魂による存在でもあり——生きるには自分に価値があると感じなければならないが、生来の価値のない人間には生来の自尊心は備わっておらず、従って人は自分の道徳的理想、選択によって創造すべき合理的な人間像にそって自分の魂を形成することでそれを勝ち得なければならず——自尊心の第一の前提条件は、すべてのもののなかから物質と精神の価値において最高のものを望む魂、何にも増しておのれの道徳的完成を追及し、それ自身以上に高い価値を認めない魂の輝かしい自己本位性であり——高い自尊心の証拠は、生贄の役割に対して、そしておのれの意識であるかけがえのない価値とおのれの存在である無比の栄光を、他人の盲目的な回避と停滞しきった退廃の生贄として捧げよと主張するすべての教養のおぞましい無礼に対しての侮蔑と抵抗の魂の震えである、という事実の認識である。
諸君が因果律に背くとき、動機となるのは因果律から免れようとするよりたちの悪い、因果律を逆転させようとするずるい願望である。諸君は値しない愛を求める。あたかも結果たる愛が原因たる個人の価値を高めうるかのように。諸君は値しない賞賛を求める。あたかも結果たる賞賛が原因たる美徳を与えうるかのように。諸君は値しない富を求める。あたかも結果たる富が原因たる能力をもたらしうるかのように。諸君は慈悲を、正義ではなく慈悲を請い求める。あたかも値しない許しが弁解の理由を払拭できるかのように。そして諸君の教師たちが熱狂してかけまわり、結果たる支出が原因たる富を生み出し、結果たる機械が原因たる知恵を生み出し、結果たる性欲が原因たる哲学的価値を生み出すと宣言すると、諸君は自分のちっぽけで醜悪ないんちきに耽溺するために、かれらの教義を支持するのだ。
そのどんちゃん騒ぎのつけは誰が払うのだろう? 理由なきものは誰に起因するのだろう? そんな人間は存在しないという諸君の体裁を保つべく、功績はおろか苦しみも認められないまま沈黙のうちに滅ぼされる犠牲者は? 我々である。我々、知性を重んじる人間だ。
独自性を定義し、因果関係を発見する過程である思考をおこなう我々は、諸君が切望するあらゆる価値の原因である。諸君に知り、話し、生産し、欲し、愛することを教えたのは我々なのだ。諸君は理性を放棄した——それを維持した我々がいなければ、諸君は自分の願望を満たすことはおろか思いつくことすらできなかっただろう。作られていない服や、発明されなかった自動車や、存在しなかった商品の交換手段としての考案されなかった貨幣や、何も達成しなかった人間におぼえなかった賞賛や、考え、選び、価値を見出す能力を持つ人間のみにふさわしい愛を欲することはできなかったことだろう。
人はみな生まれつき働かずとも生存する資格があり、その逆の現実の法則とは関わりなく、みずから労せずとも当然の生得権として『最低限の生活』 ——食物、衣服、住居——を享受する資格があるとかれらは宣言する。そして誰から受けとるのか、という問いは抹消される。人はみな世界でうみだされた技術的恩恵の分け前を等しく有する、と声高にかれらは言う。そして誰によって想像されたのか、という問いは抹消される。産業資本化の擁護者然として血迷った臆病者はいま経済学の目的を『人間の無限の欲望と限りある物資の供給とのあいだの調整』と定める。そして誰によって供給されるのか、という問いは抹消される。教授をよそおったインテリのやくざは、過去の思想家の社会理論は人間が合理的な生き物であるという非現実的な仮定に基づいていたと宣言してかれらを無視するが——人間は合理的ではないから、非合理的でありながら、つまり現実に反して、かれらの生存を可能にする制度を確立しなければならないと宣言する。そして誰がそれを可能にするのかという問いは抹消される。人類の生産を管理する計画をいそいそと出版するズレた凡人——その統計に同意するか否かにかかわらず、計画を銃によって強いる権利については誰も疑問を呈することがない。そして誰に強いるのか、という問いは抹消される。わけのわからない収入のあるそのへんの女性がひらひらと地球を飛び回り、世界の後進地域の人びとはより高い生活水準を要求しているというメッセージを届ける。そして誰から要求しているのか、という問いは抹消される。
すべてのことがらには二つの側面がある。一方は正しく、もう一方は誤りだが、中間は常に悪である。誤っている人間はまだしも、選択の責任を引き受けるだけではあっても、真実へのいくらかの敬意を保っている。だが中間の人間は、選択肢や価値など存在しない振りをするために真実を抹消し、どんな戦いにも関与しないことをよしとし、無実の人間の血で金儲けもすれば罪人のもとへ這いつくばっていくこともいとわず、強盗と被害者の両方を刑務所へ送り込むことで正義を分かち、思想家と愚人に歩み寄りを命じて争いを押しのける悪党である。食物と毒との間では、少しでも妥協しようとすれば、勝利しうるのは死だけである。善と悪の間では、少しでも妥協しようとすれば、利益を得るのは悪だけだ。悪に糧を与えて善を枯らす輸血において、妥協する者は血液を送るゴム管の役割を果たすことになるのだ。
中途半端に合理的で臆病な諸君は、現実の信用詐欺を働いてきたが、諸君があざむいた犠牲者は諸君自身だ。人が美徳を近似値に貶めるとき、悪が絶対的な力を獲得し、揺るがぬ目的への忠実さを有徳の人物が放棄するとき、それはごろつきにとられてしまい——へつらい、かけひき、不忠な善行、独善的で妥協のない悪といった見苦しい光景を目の当たりにすることになる。無知が知識を誇示することだと言う腕力の神秘家に屈している。自分が正しいと確信することは利己的だとかれらが叫べば、慌てて自分には何も確信できないと請け合う。ヨーロッパの人民国家のチンピラが、行きたいという諸君の願望と、諸君を殺したいというかれらの願望を意見の相違として扱わないからと不寛容の罪で騒ぎ立てれば——諸君はすくんで、自分はいかなる恐怖に対しても狭量なわけではないとそそくさと請け合う。アジアの不衛生な土地からきた裸足の窮乏者が諸君に向かって、よくも金持ちでいられることだと叫べば——諸君は謝罪し、もう少し待ってほしい、いずれ全部寄付するつもりだと約束する。
人生におけるあらゆる行為は意志のあるものでなければならない。単に食物を手に入れたり食べたりする行為も、人が存続させる人物が存続に値することを意味している。人が楽しもうとするあらゆる快楽は、それを求める人間が快楽を見いだすに値することを意味している。彼には自尊心の必要について選択の余地はなく、唯一選択できるのはそれを測る基準である。そして命を守る尺度を自己破壊をうながすものに変えるとき、存在と矛盾する基準を選び、自尊心を現実に反して位置づけるとき、人は致命的な過ちをおかすのだ。
理由なき自信の喪失、秘められた劣等感のすべて、じつは、存在に対処するおのれの無能さについてのひそかな恐れである。だがその恐れが大きいほど、人はますます自分を息詰まらせる殺人的な教理にしがみつくようになる。自分がどうしようもない悪党だと自分に宣告する瞬間を乗り越えて生きていける人間はいない。たとえ乗り越えたとしても、次の瞬間に発狂するか自殺するかだ。それを避けるために——非合理的な基準を選んでいたとすると——人は偽り、回避し、抹消するだろう。自己欺瞞によって現実と存在と幸福と知性を偽るだろう。そして最終的に自尊心の欠如を思い知る危険をおかすぐらいなら、自己欺瞞によってその幻想を保ちつづけるのだ。問題に直面することを忘れることは、現実は何よりもひどいと信じていることだ。
諸君が裏切った自己とは諸君の知性のことだ。自尊心はおのれの思考力への信頼なのだ。諸君が求める自我、表現も定義もできない『自己』の本質は情緒でも不明瞭な夢でもなく、『感情』というふらふらしたペテン師にまかせて流されるべく弾劾した諸君の最高法廷の判事たる知性だ。そして諸君はかつて知っていた消えゆく暁の光景に動かされ、夢中で明かりを求めながら、自ら招いた闇に自分を引き摺り込む。
人類の神話のなかで、かつて存在した楽園、アトランティスの都、エデンの園、どこかの理想郷についての伝説が、常に過去のものとして語り継がれてきたことに注目することだ。伝説の根源は人間の過去ではなく一人一人の人間の過去に存在する。諸君はいまも——ひとつの記憶のように定かにではなく、どうしようもない思慕の痛みのように漠然と——幼少時代のはじめ、屈従し、不条理の恐怖に慣れ、おのれの知性の価値を疑うようになる前、輝かしい存在の状態と、開放された宇宙に向き合う合理的な意識の独立性を知っていたという感覚をとどめている。それこそ失われた楽園であり、諸君が探し続けている楽園であり——諸君の意志によってとりもどせるものなのだ。
選択するのは諸君である。その選択——自分の最高の可能性に身を捧げること——は、これまで諸君がおこなった何よりも貴い行為は2+2が4であると理解する過程の知性の行為である、という事実を認めることによってなされる。
たったいま自分の正直さだけを頼りに私の言葉を理解しようとしている諸君よ——人間であるという選択肢はいまも残されているが、その代価は一から始めること、現実と真正面から向き合い、ありのままの姿で立ち、高くついた歴史の過ちを正すべく『我あり、ゆえに我思う』ときっぱり宣言することだ。
自分の知識の範囲で生きて行動し、人生の限界まで知識を広げていけばいい。権威の質屋から自分の考えをとりもどすことだ。諸君はすべてを知っているわけではないが、ゾンビになりすましたところで博識になるわけではなく——知性は誤りを免れないが、知性を放棄して誤りが全くなくなるわけではなく——みずから考えて犯した一つの過ちは、信仰によって受け入れた十の真実より安全であり、それは前者には過ちをただす方法が残るが、後者は過ちから真実を見分ける能力を破壊してしまうからだ、という事実を認めることだ。全知のオートマトンを夢見るかわりに、人間が身につける知識はすべておのれの意志と努力によって獲得されるものであり、それこそが万物の中で人間を際立たせる特徴であり、それこそが人間の自然の姿であり、道徳であり、栄光だという事実を認めることだ。
自尊心をもつためにはまず、援助を要求してくるものは誰であれ諸君を食いものにしようとしていると考えることだ。援助を求めることは諸君の人生は彼のものと言っていることと同じであり、そうした要求はおぞましいものだが、さらにおぞましいのは諸君がそれに同意することだ。他人に手を差し伸べるのは良いことだろうか? 相手が援助を自分の当然の権利、あるいは諸君の道徳義務と主張するならば、ノーだ。相手の人格と努力の価値を認め、諸君が自己満足のために援助したいと望むならば、イエスだ。苦しむこと自体に価値はなく、価値があるのは苦しみにさからう人間の戦いだけだ。苦しんでいる人間を助けるときには、その人物の美徳、再生する権利、経歴の合理性、不正に苦しんでいるという事実だけを理由に助けることにしなさい。それならば諸君の行為はやはり交換であり、相手の美徳が援助への支払いになる。だが美徳のない人間を助けること、苦しみ自体を理由に人を助け、過ちを受け入れ、必要を援助の請求権と認めることは、無を諸君の価値の抵当に設定するのを認めることだ。いかなる美徳もない者は生存を憎み、死を前提として行動する。そうした人物に力を貸せば、罪悪を承認し、破壊の仕事を持続させることになる。惜しくもない1セントだろうが相手が値しない優しい笑顔だろうが、無にものを捧げることは人生と、人生を全うしようと戦うすべての人間への裏切り行為である。そのような1セントと笑顔が積み重なって世界の荒廃を招いたのだ。
私の美徳は実践が困難であり、未知のものと同じく怖いとは言わないことだ。生きていると諸君が実感できた瞬間はいつも、私の掟である価値観によって生きていたのだから。だが諸君はその掟をもみ消し、否定し、それに背いた。美徳を悪徳の犠牲に、最高の人間を最低の者たちの犠牲にし続けた。まわりを見渡してみることだ。諸君が社会にしたことは、まず諸君の精神の中でおこなわれている。一方は他方に具現化された観念だ。今日の世界であるこの荒れ果てた残骸は、自分の価値観、友人、弁護者、未来、祖国、そして自分自身への裏切りが物理的な形となってあらわれたものなのだ。
AはAであり——人間は人間なのだ。正当な権利とは、まっとうに生きていくために人間本来の性質によって必要とされる存在の条件のことだ。人がこの世界で生きていくものならば、知性を使うことは正しく、みずからの自由な判断に基づいて行動することは正しく、自分の価値に基づいて働き、成果を手にするのは正しい。この世の人生が人の目的ならば、人には合理的な存在として生きる権利がある。自然は非合理的な人間を存続させはしない。人間の権利を否定しようとするものはいかなる団体であれ、ヤクザであれ、国家であれ間違っており、すなわち悪であり、すなわち生命に反するものなのだ。
財産権は因果律に由来する。あらゆる財産と富は人間の頭脳と労働によって生み出されたものだ。要因のない結果がありえないのと同様、富の源である知力がなければ富をえることはできない。人は強制によって知力を働かせることはできない。考えることができる者は強制によって働こうとはしない。強制によって働く者ならば、かれらを隷属させるのに必要な鞭の値段以上のものを生産することはない。頭脳の産物を手にいれるには、その所有者の提示する条件で、交換によって、自主的な合意に達するしかない。そうでなければ人間の財産に対する人間の政策は、どれほど多くの人間に支持されようとも犯罪者の政策となる。犯罪者とは短絡的に行動し、餌食が尽きると自らも飢える野蛮人のことだ——強奪が合法的であり、強奪への抵抗が非合法と政府が定めさえすれば犯罪が『実用的』になりうると信じていたが、今日飢えている諸君のように。
唯一適切な政府の目的は人権の保護、すなわち人民を暴力から守ることだけだ。適切な政府は警察に過ぎず、人民の自己防衛の代理として行動し、故に、武力攻撃を仕掛けてきた相手に対してのみ武力に訴えることができる。適切な政府の機能とは、犯罪者から人民を守るための警察、外国の侵略者から人民を守る軍隊、そして契約違反や詐欺から人民の財産や契約を保護し、客観的な法律に基づく合理的な規則によって争いを解決する法廷だけだ。だが他人にも何も強制していない人間に対して武力を行使し、無防備な被害者に対して軍を介して制裁をおこなう政府は、道徳を完全に破壊すべく作られた悪夢の装置である。そうした政府は、その唯一の道徳目的を覆し、保護者の役割からもっとも危険な敵に、警察官から自己防衛の権利を奪われた犠牲者に暴力をふるう権利を与えられた犯罪者の役にかわる。そのような政府は道徳を、人は味方が相手より強ければ、隣人に何をしてもかまわないという社会行動規範に変える。
たかり屋が手綱を握っているあいだは、かれらの条件で出世しようとしないことだ。かれらを権力の座にいすわらせておく唯一の力である諸君の活力ある野心にふれさせないことだ。ストライキをしなさい——私のやりかたで。自分だけのために知性と技術を使い、知識を広げ、能力を開発するのはよいが、業績を他人と共有しないことだ。たかり屋を背負ったまま富を生み出してはならない。かれらの階層にあって最低の地位にとどまり、最低限の生活費だけを稼ぎ、1セントたりとも余分に稼いでたかり屋の国家を支えないことだ。事実上の捕虜である諸君は捕虜として行動し、諸君が自由であると見せかけさせてはならない。かれらをおびやかす静かで高潔な敵になることだ。脅迫されたときには従いなさい——だが自分から協力してはならない。かれらの方向に自分から一歩でも進んだり、なにか一つでも望んだり、頼んだり、目指したりしてはならない。ピストル強盗に友人や恩人として行動していると言わせてはならない。看守に監獄にいることが諸君の本来の状態だという振りをさせてはならない。現実を偽らせてはならない。その偽りは、かれらの秘められた恐怖、かれらが存在に適さないと知る恐怖をくいとめる唯一のダムなのだ。それをとり払い、かれらを溺れさなさい。諸君の承認がかれらの救命帯なのだから。
かれらの手の届かない荒野に姿を消す機会があればそうしなさい。だが山賊として生きたり、かれらの悪行とはりあうヤクザの集団を作ったりするのではなく、諸君の道徳律を受け入れ、人間らしく生きるために労苦を惜しまない者たちと実りある生活を築くことだ。死の道徳や、あるいは信仰と暴力の掟によって勝利する見込みはない。正直な人間が修正する基準、命と理性の基準を作ることだ。
合理的な存在として行動し、誠実な声に飢えている者たちすべての集合点となることを目指しなさい——敵の真ん中に一人きりでも、数人の選ばれた友人とでも、あるいは人類再生のフロンティアにある地味な共同体の創始者としてでもいい、諸君の合理的な価値観に基づいて行動をおこしなさい。
我々がうちたてる政治制度は一つの道徳的前提に集約される。それは、何人も力に訴えて他人から価値を奪ってはならないということだ。一人一人がそれぞれの合理的な判断によって、立ち上がったり倒れたり、生きたり死んだりする。合理的判断をせずにつまずいても、犠牲となるのは本人だけだ。自分の判断力だけでは不十分と思っても、それを高めるのに銃を与えられることはない。時とともにみずからの過ちを正すことにすれば、優れた先人たちのさえぎるもののない例が、思考の道筋を示してくれる。だがある人間の過ちの代償を別の人間の命で払う愚行には終止符がうたれる。
その世界で、諸君は子どもの頃に知っていた気持ちで朝目覚められるだろう。合理的な宇宙に向かうことからくる熱意と冒険心と確信をもって。自然をおそれる子どもはおらず、なくなるのは人間に対する恐れ、魂の成長をはばんでいた恐れ、早い時間に人間のなかの理解不能な、予測不能な、矛盾する、恣意的な、隠れた、欺瞞にみちた、非合理的なものと遭遇して身にしみついた恐れである。諸君は事実と同じく一貫しており信頼できる責任ある人間の世界に暮らすことができるようになるだろう。そうした人格を守るのは、客観的な現実が判断基準である存在の秩序である。美徳は守られるが、悪徳や愚鈍さは容赦されない。善行にはあらゆる機会が開かれるが、愚行に猶予は与えられない。諸君が人から受けとるのは施しでも憐れみでも情けでも罪の許しでもなく、唯一の価値、すなわち正義である。そして、人や自分自身の姿を見るとき、諸君は嫌悪感や疑念や罪悪感はなく、唯一不変の念、尊敬心を抱くことだろう。
それが、諸君が勝ちとることのできる未来である。そのためには努力が必要だが、それは人間の価値すべてにいえることだ。すべて人生は目的ある闘争であり、諸君に課された唯一の選択は目標の選択だけだ。いまの戦いを諸君は続けたいだろうか? それとも私の世界のために戦いたいと思うだろうか? いまにも奈落にすべり落ちそうな岩棚にしがみついているばかりの闘争、いくら耐えても困難を克服できず、勝利を手にすることでいっそう破壊に近づく闘争を諸君は続けたいのだろうか? それとも岩棚から岩棚へ頂上に向かって着実に登っていくことからなる闘争、困難が未来への投資であり、勝利によって間違いなく諸君の道徳的理想の世界に近づき、たとえ陽の目を見ることなく命尽きたとしても、せめてその光景が射しこむ場所で死ぬ闘争を始めたいと思うだろうか? それが、諸君が前にしている選択である。諸君の心と、存在への愛に決めさせることだ。