生成AIと自己表出
物理的な仕事を機械が代替することと、言語なり芸術なりの創作的なものを機械(AI)が代替することは、同じものとはみなせない気がする。「走るより車のほうが速い」と「人間が文章作るよりAIが作るほうがよい」は質が違う気がするが、けっこうそういうアナロジーで後者が肯定されがちなような。
やっぱり、表現や自己表出の領域を機械(AI)に自動化されることに、えもいわれぬ気持ち悪さや危機感を感じてしまうのかもしれない。
梅棹の『情報の文明学』でいわれる意味での「情報」の領域の話だといってもいいかもしれない。その情報の「価値」の話かもしれない。情報の価値判断の主体という立場を奪われる危機感、なのかも。生成や創作というのはつまり価値判断なのでもあり。