関係性から考えるものの見方
アメリカでは中絶問題で世論が真っ二つに割れている。賛成派と反対派で議論すると、互いに相手の主張のおかしいところを攻撃し、自分の主張の正しさを訴える。話は平行線に終わり、関係性は断絶したまま。ところが。
ShinShinohara リクツを戦わせるのをやめ、なぜ自分が中絶に反対するようになったのか、あるいは賛成するようになったのか、そのきっかけとなった個人的体験を語ってもらったところ、お互いに「ああ、そういう体験があると、そういう意見になるのは当然だよな」と理解と融和が進んだという。 ShinShinohara この現象は興味深い。リクツというのは一見論理的で、論理的だからこそ普遍的なものだという思い込みがある。その普遍的なリクツから言えば相手の意見は非常におかしく矛盾に満ちていて、自分の理論こそ正しい、としか思えない。しかし相手は相手で同じことを考えている。ここに断絶が生じている。 ShinShinohara しかし、個人的体験という、一般にはとても個別的で特殊事例にすぎず、普遍性がないと思われているものが、立場や主張の違いを超えて胸を打つ。なぜ中絶に反対するようになったか、それは親戚でこういう悲しい出来事があって。なぜ中絶に賛成するのか、それは妹にこんな出来事が起きて。 ShinShinohara そう、不思議なことだが、個別的で特殊事例に過ぎないと思われがちな個人的体験の方こそ、立場や主張を乗り越え、共感できるという「普遍性」を備える。そして相互理解はもはや不可能とまで思われていた関係性が動き出す。社会構成主義は、こうした「関係性」に着目する特徴がある。 ShinShinohara もうひとつ面白い事例が。「あさイチ」での実験。いくら「道路を飛び出ちゃダメ!」と叱っても飛び出てしまう子どもに困っている親子が複数、実験に参加。親に目隠ししてもらい、「君が安全に道路を渡らせなければいけないんだよ」とスタッフから言い聞かされた子ども。すると。 ShinShinohara それまで左右も見ずに飛び出していた子どもが、必死に左右を何度も確認し、安全だと確信してもなお慎重に親の手を引き、横断歩道を渡った。どの子も一人残らず。親は全員驚いていた。今まで何度言っても左右も見ずに飛び出していたのに! ShinShinohara これは「関係性」が変わったからだろう。それまで子どもたちは、親が左右を確認してくれるに違いない、と、安全性の確認を親に「アウトソーシング」して、自分の興味の赴くままに動いていたのだろう。親も子どもの注意力を信じず、先回りして声をかけていたため、余計にアウトソーシング状態に。 ShinShinohara しかし親が目隠しし、子どもの注意力に依存せざるを得なくなった時、子どもは「親の命を僕が預かっている」という責任をよく自覚し、持てる力を最大限引き出して左右を確認し、道路を無事に渡り切ろうとしたのだろう。関係性が変わったことにより、子どもの行動が大きく変容した格好。 ShinShinohara 私が「先回りせず後回りしよう」と提案しているのも、「関係性」を変化させるため。子どもにああしなさい、こうしなさいと先回りして指示すると、子どもは「今やろうと思ったのに」とやる気をなくしてしまう。先回りされると、それは指示命令されたからやったのだ、という形になってしまう。それだと。 ShinShinohara 片付けをした、宿題をしたのは自分なのに、指示命令した親の功績になってしまう。「あなたが片付けをしたのは、宿題をしたのは指示命令をした私のおかげ、あなたは指示命令しない限り動こうとしなかった怠け者」という「関係性」になっていることに子どもは気づき、すっかり嫌気がさしてしまう。でも。 ShinShinohara 「後回り」すると。子どもが動き出すまで待ち、例えばたまたまおもちゃを持ち上げて移動しようとしたときに「お!片付けするの?誰にも言われないのに、偉いねえ」と驚くと、片付けるつもりがなかったのに嬉々として片づけ始めたりする。 ShinShinohara 夜が更けてもなかなか宿題しようとしなかった子どもが、さあ寝ようという時間になってから「宿題やらなきゃ」と言い出したとき、「なんでもっと早くにやらないの、寝るのが遅くなっちゃうでしょう?明日遅刻するよ!だいたいいつもあんたは・・・」と小言を言いたくなる。しかしそこをグッとこらえて。 ShinShinohara 「宿題をやろうとするその心意気、いいねえ!でももう夜も遅いから、早めにね。○○分になってできなかったら、明日朝がんばろうか」と、子どもが能動的自発的にやろうと言い出したことに驚いて見せると、子どもは嬉しくなる。そして、能動的になることで親を驚かせようと企み始める。 ShinShinohara 「今日はもう宿題済ませたよ!」「え!何も言われていないのにやったの!」と驚いて見せたら、能動的に取り組もうという姿勢が湧いてくる。 命令して従わせようとすると、「いうことを聞かない子ども」と「私が命令するおかげで何とかなると考えている親」という関係性が固定化してしまう。しかし。
ShinShinohara 子どもが能動的に動き出すのを待ち、能動的に動いた時に驚く、という「後回り」の姿勢を親が持っていると、子どもは、能動的になればなるほど親を驚かすことができることに気がつき、親を驚かすためにますます能動的になっていく。後回りし、子どもの能動性に驚く、という姿勢が、関係性を変える。 ShinShinohara 私たちはついつい、「あいつは○○だから」とレッテルを貼り、それによって相手との関係性を固定化させてしまう。自分を正義の存在と定義して。相手を悪の存在として定義して。「存在」に着目すると関係性は変化しなくなり、事態は硬直化する。しかし。 ShinShinohara 「相手がこうだから」「自分はこうだから」と「存在」に着目するのをやめ、関係性を動かすには、変えるにはどうしたらよいか?と考え方をシフトさせると、面白いことに、関係性が変わった途端、相手も自分も変化してしまう。変わるはずがないと思っていた「存在」が、いともたやすく変わる。 ShinShinohara 社会構成主義のマンガってないかね?という話になって。私なりにオススメなのが、「家栽の人」。このマンガには、「こいつはもうどうしようもない」と思われていた「存在」が、関係性を変えることで劇的に変わるというエピソードがてんこ盛りになっている。 ShinShinohara シンナーをやめられない少年、飲んだくれの父親。たまたま裁判で関わることになった弁護士と裁判官がシンナー少年を更生させようとし、父親も酒を控えて仕事をするように言うのだけど、またしてもシンナー中毒、酒浸りに逆戻り。この親子はどうしようもない、とサジを投げる思いの弁護士と裁判官。 ShinShinohara そこで桑田判事が登場。弁護士や裁判官としてはもうできることはないかもしれない、「でも私達は人間でしょう?」と問いかける。 弁護士と裁判官は、飲んだくれている父親と同席して飲み始めた。父親は「いつまで俺につきまとうつもりだ?」と食ってかかった。そこで弁護士が言ったのは。
実は父親は腕のよい職人だったけど、現場から転落して大怪我。それ以来、恐くて現場に立つことができなくなり、それが情けなくて酒浸りになるように。家でも荒れ、それが理由で息子がシンナー中毒に、という流れ。
ShinShinohara 少年のシンナー中毒を止めるには、父親の孤独の問題を考えねば。それが「人間」としてできることと考えた、弁護士と裁判官の試みだった。 相手を変えようとするのではなく、関係性を変える。関係性をデザインし、それが変わると人間の行動は変容する。それがよく現れたエピソード。
ShinShinohara 成績優秀、学校でも評判の良い少女が、売春するように。補導したけど反省の色がない。なぜ売春したの?と聞くと「お金がほしかったからでーす!」と軽いノリ。しかし裕福な家庭なのでそれが理由とは思えない。 ShinShinohara 解決の糸口がなく、困った調査員。主人公の桑田判事は、家を見たほうがいい、とアドバイス。調査員が家庭を訪問すると、妙に清潔過ぎる家ということに気がついた。そして帰り際、少女の弟が追いかけてきて「お姉ちゃんはずっと牢屋に入るの?お母さんが、お姉ちゃんは汚れちゃった、って」。 ShinShinohara ここから問題の糸口を見出した調査員。実は、少女が初めて生理になった時、母親からこう告げられた。「学校で習ったでしょ、早くトイレに行って。家が汚れるでしょ!」その言葉で、少女は、家を汚す存在とみなされた、とショックを受けた。 ShinShinohara 「そんなに汚い存在なら、娘よりもきれいな家の方が大事なら、いっそとことん汚れてやろうじゃないの」という反発心が生まれたことが、売春に走る原因だった。 ShinShinohara 桑田判事は、母親に「子どもは親の価値観に従うだけのモノではないですよ!」と強い言葉で叱責。母親は自分に原因があったのか、という事実に愕然として震えだす。ショックを受けて震える母親を見て、少女は初めて自分のしたことを悔い、「私を家に帰してください!」と頼む、という物語。 ShinShinohara 桑田判事が母親の、異様なきれい好きに一撃を加えることで、母子の関係性を変容させ、結果、子どもの意識も変わる、というお話。 「家栽の人」という漫画は、社会構成主義の好例が実にたくさん掲載されている。
ShinShinohara ドラゴンボールもいいかもしれない。ピッコロとかベジータとかはもともと孫悟空のライバルだったはずなのに、いつの間にか協力して敵を倒す仲間に。これは、ピッコロやベジータが常に相手をライバルととらえる姿勢なのに、悟空は。 ShinShinohara 「強い奴と戦いてえ」という関係性の形でしか対峙しないため、いつの間にかライバルだった連中も毒気を抜かれて行ってしまう、という物語。 相手を変えようとするのではなく、関係性を変えてみる。関係性をデザインする。すると、私達「存在」は意外なほど変容する。
ShinShinohara 「社会構成主義」なんて呼ぶと堅苦しくてわかりにくいけど、「関係性から考えるものの見方」と捉え、マンガにいろんな事例があることを見つめ直すと、いろんなヒントが転がっているように思う。