質問は言語化を促すが質問にも種類がある
Keichobotで質問されていたときは、確かに「質問は言語化を促す」という体感があった
ScrapboxでAIが質問をしてくることに関して、あまり有益に感じていない
質問リストをしばしば削除している
なぜなのか、何がこの二つの体験の違いなのか
Keichobotの質問は常に一つである
フォーカスをそこに絞らせる効果がある
質問に答えようとすることによってフロー状態に入る
思考がさまよっていかないようにテーマに繋ぎ止める効果がある
チャットUIであることによって「答える」か「答えない意思決定をする」のどちらかの表明が必要
Scrapboxに住むAIの質問
たくさんある
どれを選択するか、という問題が発生する
時々、とても本質的で回答の難しい質問が出る
これは良いことだと思う
答えようと努力することは有益だと思う
しかし答えを出すのに1年かかるかもしれない
インタラクションの設計として見た目と要求がマッチしていない
時間を置いて表示され、関連することを少しずつ蓄えていき、ある段階でそれらがつながって答えが見つかる
しばしば、くだらない質問をする
鉤括弧つきの「頭の良い」思考
表面上頭が良くて芯の通ってない空虚な賢さに基づいた質問が不毛すぎて萎える
質問をしろと命じたことがよくないのかもしれない
その質問に答えることによって有益な発展があると思えないので、回答することにリソースを割く気にならないのだよな
実際の使ってみての肌感覚としては、質問によってドライブされるのよりも、記述を見て「なるほど」となったり「いや、その解釈は違う」となったりするのの方がドライブされる