被害者の呪い
madanaizo 内田樹先生。SNSだとあんま人気ないけど、十数年も前に「「私は被害者だ」という名乗りを一度行った人は、その「正しさ」を証明し続けるため、どんな救済によっても私の「失ったもの」は回復できない…という状態に、その後も「居着く」ことになる云々」と書いたのは、超先見の明があったと思うけどな madanaizo 「今は「被害者」が一番強いから、みんな、真っ先にその位置に着こうとするんだよ。」みたいなことを、20年くらい前には書いてたよ。先生、最近人気ないみたいだけど、SNS見ると「なんだ。やっぱり、先生の言ってることが正しかったじゃん」となる。 madanaizo いや、被害者が被害を訴えるのは超正しいよ。でも、同時に「そこに「居着く」のもダメだよ。いつまでも「被害者」のままだと、自分の人生がなくなるよ」と言うのも、日本の「おじさん」の役目だったはずだ。それがなんだ。最近は糸井的な「あれ今はコレもセクハラになっちゃうのかな 」しかいない madanaizo なんとなく思い出す。佐藤忠男の木下恵介『永遠の人』評。「事件を言い訳にその後の人生設計をサボった」云々。昔の人はみんな貧乏&不幸だったから、同じ不幸な人にも、ちゃんと説教できたんだろうね。「辛いのはお前だけじゃないぞ、甘えるな」的な感じで。現代人でよかった 2008-5-13
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。
もし「私」がこの説明を足がかりにして、何らかの行動を起こし、自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現した場合、その「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになる。
これは前件に背馳する。
それゆえ、一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。
自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。