苦痛の正当化
具体的には自分の愚かさゆえに発生した損失を目の当たりにするなどのイメージ
こういう苦しみが人を育てるという側面がないわけではない
苦しみを受けた人はその苦しみが無益であったとは思いたくないので、過度に意味を見出しがち
意味を見出した結果、他の人も同様の苦しみを受けるべきであるという発想に至る
この発想は有害
集諦:その苦を生み出しているのは自分の欲求であることを理解する 道諦:正見、正思に始まる八正道によって貪欲を滅ぼすことができる、と理解する 法華経・譬諭品第三では
もし人 小智(しょうち)にして深く愛欲に著(ぢゃく)せる これらを為(もっ)ての故(ゆえ)に苦諦(くたい)を説きたもう
衆生心に喜んで未曾有(みぞう)なることを得 仏の説きたもう苦諦は真実にして異なることなし もし衆生あって苦の本(もと)を知らず 深く苦の因(いん)に著(ぢゃく)して 暫(しばら)くも捨(す)つること能(あた)わざる これらを為ての故に 方便(ほうべん)して道を説きたもう
苦の所因(しょいん)は 貪欲(とんよく)これ本(もと)なり もし貪欲滅(めっ)すれば 依止(えし)する所なし 諸苦(しょく)を滅尽(めつじん)するを 第三の諦と名づく 滅諦(めったい)の為の故に 道を修行す