自分の頭で考える人は事実や情報の羅列が欲しい
自分の頭で考える人は事実や情報の羅列が欲しい
本日の単語登録「かんかよ」=「簡潔に箇条書きで要約せよ。」
「かんかせ=簡潔に箇条書きで説明せよ。」も追加しておいた。
昨日単語登録した「簡潔に箇条書きで説明せよ。」を使いまくっているが、これって昔
@tokoroten が箇条書きマッハ新書の文脈で言ってた「文章の形で執筆されるより箇条書きで共有した方が有益」みたいな話だな 文章→箇条書きで何が起こったのか考えてみたが、要するに「文章が生成される速度」が「人間が文章を読む速度」を上回っているなら「人間の読む速度が速くなるフォーマットで生成する」ことが全体最適ということか。
もう一つの「簡潔に箇条書きで要約せよ。」は「簡潔に箇条書きで説明せよ。」をつけ忘れた時とか、他のソースから来た文書を箇条書きスタイルに変換するときに使っている。
自分の頭で考えられる人は事実や情報の羅列が欲しくて、
自分の頭で考えられない人は論理展開が欲しい、ということなのかなーと思った
まー、でもこの使いかたは事実の列挙ではないな。
自分が考えるつもりなのかかんがえてもらいたいのかという切り口は妥当そう。
自分が広い視野をもって考えるための索敵ユニットを展開してる感じかな〜 h_sakurai
Haskellで部分関数に分けて書くか、case of を使ってパターンマッチとして書くかは好みが分かれるみたいな話ですね。
Prolog的に考えると事実の列挙なこともあるだろうけど述語を複数並べて書くみたいなパターンもあり得るみたいなw
事実と規則かw
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要するに僕の使い方は、そもそも「すべてのデータはうそである」として視点を集めてそれを自分が綜合することで「広い視点」を得ようとする行動だから、列挙で良いってことなのかもな