美的直観
/media/winhome/Dropbox/intellitech/iw/books/ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫) フリードリッヒ ニーチェ 612p_448008083X.txt
203:六七七(8『18)世界解釈はどこまで支配的衝動の症候であるかの問題芸術的世界考察。すなわち、おのれを生の面前へと置きすえる。しかしここでは美的直観の分析が欠如
しており、この直観が、残酷性、安全感、審判者であり局外者であるという感情などへと還元されていない。芸術家自身を、またその心理学を取りあげてみなければならない(
力の放出としての、変化でおぼえる、おのれ自身の魂を他のもののうちへと刻印することでおぼえる快感としての遊戯衝動の批判、芸術家の絶対的利己主義など)。芸術家が洗
練するのはいかなる衝動であるかの問題。科学的世界考察。すなわち、科学をもとめる心理学的欲求の批判。理解しうるものたらしめようとの意欲、実用的な、有用な、利得あるものたらしめようとの意欲ー、どこまで反美的であるかの問題。価値は、計算され算定されうるもののみ。どこまで平均人がそのさい優勢となろうと欲しているかの問題。歴
史すらこのような仕方で左右されるとすれば、怖るべきことであるー歴史は、卓越者、審判者の王国であるからである。科学者はなんたる衝動を洗練することか!宗教的世界考
察。すなわち、宗教的人間の批判。それは必ずしも道徳的人間であるのではなく、強い興奮状態や深い抑鬱状態にある人間であり、この興奮状態を感謝ないしは疑念を2 01 ‖
自然における相力への意志
/media/winhome/Dropbox/intellitech/iw/books/ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫) フリードリッヒ ニーチェ 526p_4480080783.txt
181:の、彼の知的良心の峻烈さが、それであろうかP IIそれとも、教会とかキリスト教の神とかにかかわる事柄における、彼の潔癖さがそれであろうか?ーというのも、この点
にヵし、 “ 贅凱痢「rにれ漱】わ「行わ猜畔、一直の観誰のょ主り鯨』』用「」「の、、「因ヴ紳御″憫夕性艤』一崚ての、また知性の道具的性格や意志の不自由などについて
の、彼の不減の教説がそれである燎 “ “ くヵ、日て、な一」「らンすノ、【なm〔梅鳳げ就動狼薇いれい魅つ螺噛一報れれ動熱れはいr毅現ヽ在ヽあが世界の謎の解読者たろう
との虚栄的衝動のため誘惑され堕落させられたあの箇所に見られる狼狽や遁辞、たとえば、一つの意志についての証明不可能な学説(「あらゆる原因はこの時oこの所における意志の現象の機会因にすぎぬ」、「生きんとする意志は、あらゆる存在物のなかに、どんなにつまらぬ存在物のなかにも、全体として分かたれることなく存在する、であろう一切
物の納緬セ聡鼈したょぅな完全さで、存過去にあっ在するし、個体の否認(「あらゆる獅子は根本において一つの獅子にすぎぬ」、「個体の多数性は一つの仮象である」、同様
にまた発展も一つの仮象にすぎないー彼はドゥ・ラマルクの思想を「一つの天才的な不条理な誤謬」と呼ぶ)、天才についての空想(「美的直観にあっては個体はもはや個体ではなく、純粋なo無意志の・無苦痛のo無時間の認識主観である」、「その主観は、観照された対象に没入しきることにより、この対象そのものとなってしまうし、同情についての
、かつ同情において全道徳性の根拠として個体化の原理C『】R置‘ヨtり。未来に7g,u=]ヽた〕ヽあしじる
/media/winhome/Dropbox/intellitech/iw/books/存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫) ジャン=ポール サルトル 632p_4480091068.txt
515:ふうに書きあらわされる。外的な否定は、即自存在であるとともに、純粋な理想性であるという二重の性格をもっている。外的な否定は、それが決して対自に属するもので
はないという点で、即自的であるが、対自が存在の無差別を外面性として発見するのは、ほかならぬ対自自身の否定という絶対的な内面性をとおしてである(というのも、美的
直観においては、私は一つの想像的な対象をとらえるからである)。しかしながら、存在がそれであるべきであるところの否定というようなものは、全然、問題にならない。い
いかえれば、ヽ外ヽ的ヽなヽ否定は、当の「このもの」たちのいずれにも属さない。外的な否定は、ただ単に、存在する。外的な否定は、それがあるところのものである。けれ
ども、それと同時に、外的な否定は、決して「このもの」のもつ一つの性格ではない。外的な否定は、「」のもの」のもつ諸性質の一つのごときものではない。外的な否定は、
フ」のもの」たちから完全に独立した否定であるともいえる。というのも、まさに、外的な否定は、「」のもの」たちいずれに属しているわけでもないからである。思うに、存在の無差別は、何、も、の、で、も、な、ヽのヽ、こういうことを意味するにすぎない。すなわち、「あい。われわれは、それを思考することも、それを知覚することもできない。外的な否定は、単に」の絶滅や変化は、たアヽ「このもの」たちを何ら拘束することができない。その意味で、外的な否定は、単に、「このもの」たちを分離させる一つの
即自的な無である。そして、この無は、意識が存在の特徴たる同一的な粘着を実現しうる唯一のしかたである。即自的でかつ理想的なこの無が、、の、も、の、513第二章超越
525:いるところのものは、それである。したがって、美は、対自の理想的な実現の相関者たる世界の一つの理想的な状態を呈示する。この状態にあっては、諸事物の本質と現実存在とは、同一性として開示されるであろうが、しかもそれが開示されるのは、この開示そのものの際に、即自の絶対的な統一のうちにおいて自己自身と融合するであろうような、一つの存在に対してである。というのも、まさに、美はただ単に、なしとげられるべき一つの超越的な綜合であるばかりでなく、美は、われわれ自身の全体化のうちに、またわれわれ自身の全体化によってしか、実現されえないからである。まさにそれゆえにこそ、われわれは美を欲するのであり、われわれは、われわれが自己自身を一つの欠如としてとらえるかぎりにおいて、宇宙を、美の「欠如分」としてとらえるのである。けれども、「即自ー対自」が対自の固有の可能性であるのではないと同様に、美は、諸事物の潜在性であるのではない。美は、一つの実現不可能なものとして、世界につきまとう。そして、人間が世界のうちに美を実現するかぎりにおいて、人間は想像的なしかたで、美を実現する。いいかえれば、美的直観において、私は、私自身を即自的対自的な全体として想像的に実現することによって、一つの想像的な対象をとらえる。通常、価値としての美は、「世界の-範囲外の-価値」として、主題的に解明されるのではない。美は、諸事物のうえに、一つの不在として、暗々裡にとらえられるのである。美は、世界の不完全
をとおして、暗々裡に開示される。523第二章超越
target2/books/存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫) ジャン=ポール サルトル 632p_4480091068.txt
515:ふうに書きあらわされる。外的な否定は、即自存在であるとともに、純粋な理想性であるという二重の性格をもっている。外的な否定は、それが決して対自に属するものではないという点で、即自的であるが、対自が存在の無差別を外面性として発見するのは、ほかならぬ対自自身の否定という絶対的な内面性をとおしてである(というのも、美的
直観においては、私は一つの想像的な対象をとらえるからである)。しかしながら、存在がそれであるべきであるところの否定というようなものは、全然、問題にならない。い
いかえれば、ヽ外ヽ的ヽなヽ否定は、当の「このもの」たちのいずれにも属さない。外的な否定は、ただ単に、存在する。外的な否定は、それがあるところのものである。けれども、それと同時に、外的な否定は、決して「このもの」のもつ一つの性格ではない。外的な否定は、「」のもの」のもつ諸性質の一つのごときものではない。外的な否定は、フ」のもの」たちから完全に独立した否定であるともいえる。というのも、まさに、外的な否定は、「」のもの」たちいずれに属しているわけでもないからである。思うに、存在の無差別は、何、も、の、で、も、な、ヽのヽ、こういうことを意味するにすぎない。すなわち、「あい。われわれは、それを思考することも、それを知覚することもできない。外的な否定は、単に」の絶滅や変化は、たアヽ「このもの」たちを何ら拘束することができない。その意味で、外的な否定は、単に、「このもの」たちを分離させる一つの即自的な無である。そして、この無は、意識が存在の特徴たる同一的な粘着を実現しうる唯一のしかたである。即自的でかつ理想的なこの無が、、の、も、の、513第二章超越