絆欲しさに縛られに行く
realNuun 人間って、自分が劣位側だったとしてもヒエラルキーの中に組み込まれることに安心し喜びを感じているなと最近よく思う ヒエラルキーに組み込まれると、自分が所属する身分の近くしか考える必要がなくなるので、認知負荷が低い状態で大きなコミュニティに属することができる
vライバー配信アプリで<推し活>したことがあるんだけど、<私>が投げ銭によってヒエラルキーの中で居場所を得る為の装置のように感じられた
推しにお金を投げるとファンランキングの中で私の順位があがる お金を投げられた推しは、ライバーランキングの順位が上がる。そして、私は「ライバーランキングN位のライバーのファンランキングM位です」と言える明確な身分を得る
やっぱりみんな、自分より強い存在に負けたがっているから、気持ちよく負ける為のステータスゲームをでっち上げるのが重要なような気がしてくる
>realNuun 『危険だからこそ知っておくべきカルトマーケティング』の中にも「大きな組織の中に様々なグループを作ると関係性が濃くなる」って話があった nishio 「絆」が元々は馬や犬をくくりつける紐のこと、って話を連想した 絆が少なくなりすぎると自由よりも絆が欲しくなって自ら何かに縛られに行く的な感じ
わざわざゲームで遊んでルールに従うことなんかもそうですが、「絆欲しさに縛られに行く」ってありますよね
BeRealとかも、縛られに行ってる感じする
MalionDiaz 負けたがるのではなく「自分の社会的な立場や状態、位置を明確化、認知したい」なかんじがした realNuun 「位置を明確にする」が目的で、「負ける」が手段なんだけど、もはや負けるのが気持ちいいみたいに脳が錯覚している節がある ちょっとズレるが、ちょっと学歴良い人間が東大卒を褒めて「負ける」と、学歴ステータスゲームが強固になって、自分より学歴低い人間に「勝っている」ことになるから気持ちよくなれるな、とかも思う
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また、「絆が欲しくて自ら縛られに行く」という点は、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』が連想されます。フロムは、現代社会において個人が自由を求める一方で、孤独感や不安から逃れるために自ら権威や集団に従属することを選択するという矛盾を指摘しています。この議論の中でも、人々が絆を求めてゲームのルールや「推し活」といったヒエラルキーに身を置くことで安心感を得るという指摘がフロムの思想に通じています。 最後に、「自分の位置を明確化するために負けることを喜ぶ」という点は、フリードリヒ・ニーチェの「奴隷道徳」や「力への意志」に関連します。ニーチェは、人々が他者の強さや権威を認めることで自らの位置を定義し、「弱者の美徳」としてその位置を喜ぶことがあると論じています。このヒエラルキーへの参加を通して自己の位置を見出し、その「負ける」行為自体を肯定的に捉える傾向は、ニーチェの議論と共通点を見出すことができます。 ---
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「絆が欲しくて自ら縛られに行く」を見て『自由からの逃走』を連想したのだが、それを連想するという知的生産をAIが代替しうるのか連想接続プロンプトの実験してみたらこうなった