物化
荘子における「物化」の出現箇所を洗ってみたが「物化」を名詞的シンボルとして使っているところは多くない
周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。
両者の間にはきっと違いがある。物化(ある物が他の物へと転生すること)とは、これを言うのである。
許由曰:「殆哉圾乎天下!齧缺之為人也,聰明睿知,給數以敏,其性過人,而又乃以人受天。彼審乎禁過,而不知過之所由生。與之配天乎?彼且乘人而無天,方且本身而異形,方且尊知而火馳,方且為緒使,方且為物絯,方且四顧而物應,方且應衆宜,方且與物化而未始有恆。夫何足以配天乎?雖然,有族,有祖,可以為衆父,而不可以為衆父父。治,亂之率也,北面之禍也,南面之賊也。」
きっと外物に引きずられて変転し、恒常不変の己を棄て去ってしまうでしょう。
故曰:知天樂者,其生也天行,其死也物化。
そこで次のように言う。「天の楽しみを心得た者は、人の世に生きてある限り、天の運行と一つになりきり、死んでこの世を去る場合も、万物転生の一つに徹する。
故曰,聖人之生也天行,其死也物化
上と同じ
工倕旋而蓋規矩,指與物化而不以心稽,故其靈臺一而不桎。
昔の細工の匠工(上古の工匠)は、作り物に腕を振るえばコンパス・差し金を当てたかのよう。彼の指先は木や金の材とぴたりと一つになり、心にあれこれ計りめぐらすことがない。
仲尼曰:「古之人,外化而內不化,今之人,內化而外不化。與物化者,一不化者也。安化安不化,安與之相靡,必與之莫多。
「昔の人は、外面は事物に順応して柔軟に変化しながら、内心は己を固く守って変化することがなかった。ところが、今の人となると正反対、内心は事物に引かれて不断に変化しつつ、外面は取り繕って頑なに変化しようとしないのだ。一体、外界の事物に順応して柔軟に変化していく者は、その実、内心の己を少しも変化させない人と言えよう。彼は、変化する時にも落ち着き、変化しない時にも落ち着き、落ち着き払って事物に順応するけれども、それでいて決して己を見失うことはないのだよ。
冉相氏得其環中以隨成,與物无終无始,无幾无時。日與物化者,一不化者也,闔嘗舍之!
上古の聖王冉相氏は、こうした現象世界の因果の環の中心に位置を取って、万物の生成・変化するに身を任せた。万物と一緒になって因果の循環を経めぐり、終わりもなければ始めもなく、瞬時もなければ時間もなかった。このように、日ごとに物と一緒になって変化していく者は、実は自分の内面が少しも変化しない存在である。さあ、ものは試し、一つ我々もこの境地に身を置いてみようではないか。