無は存在よりも複雑な概念
ない状態に存在が付け加わってある状態になるのではなく、ある状態を予想したのにその予想が裏切られた時に「ない」と認識される
無とはものが存在しないことではなく有用性が存在しないことである およそ人間の行動の出発点に不満足があり、だからこそまた欠在の感じがあることは争えない。ひとはある目標をたてなければ行動しないであろうし、あるものの欠如を感じればこそそれを求めもする。そのようなことで、私たちの行動は「無」から「あるもの」へと進むのであり、「無」のカンヴァスに「あるもの」を刺繍することは実に行動の本質をなしている。もっとも、いま問題の無とはものの欠在よりはむしろ有用性の欠在のことである。まだ家具でかざられていない部屋に客をみちびくとき私は客に告げて「なにもありません」という。しかし部屋に空気のみちていることは知っている。けれども空気のうえに坐るのではないから、只今のところ部屋のなかには客にとっても私自身にとってもものらしいものは正直いってなにもなかったわけである。一般的にいって、人間の仕事とは有用性を創造することである。そして仕事がなされないかぎりは「なにも」ない、すなわちひとが入手したかったものは「なにも」ない。こうして私たちの生は空虚をうずめることで過ぎる。…私たちの思弁もまた同じようにやってみずにはいられない。…事象は空虚をうずめるものだとする考えや、あらゆるものの欠在という意味での無は事実上そうではないにしても権利上はあらゆるものに先在するという考えが、こうして私たちのなかに根をおろす。私はこの錯覚を消散させようとこころみてきた。… — アンリ・ベルクソン 『創造的進化』(1907年)、 真方敬道 訳