泥をすすってでも実績を作りに行くべきか
泥をすすってでも実績を作りに行くべきか
これはそもそも「実績」というものに対する認識の違いがある。
起業してソフトウェアを作ってそれが採用されず、クローズした場合に、これを実績と思うか思わないかは人によって異なっている
客観的にはそれを行ったという事実がある
その行為の価値を高く見るか低く見るかが人によって異なっている
評価しない側の視点
顧客がついてない
継続可能になっていない
継続的に価値を生み出すシステムの構築に失敗している
社会実装に失敗している
社会とのコミュニケーションのミスの可能性
社会実装ができていないのだから、この人の企業家としての「社会実装を実現させる能力」には不足がある
一方で、価値を見出す視点もある
起業して失敗したということは「失敗し得ることにチャレンジした」ということであり、それは失敗を恐れてチャレンジしない人よりもより多くのことを学んだのだ
僕は未踏の同期や後輩がバンバン起業していくのを見ながら、自分は起業しようと思えるアイデアを見つけることができないままここまで来たので、起業してる人は全員なんらかの「僕にないもの」を持ってると思ってる
一方で軸足は起業家コミュニティの外にあるので、起業家コミュニティが「価値がある」と思っているものに対してコミュニティの外の大部分の人が価値を見出さないこともわかる
アカデミアの外の人が「論文を書く」ということに価値を見出さないのと似たようなもの
特にVCにはうぶな若者を自分たちにとって都合のいい価値観に染めるインセンティブがあるのが危険だよなぁ、とも思う
みんなが善意ではないからなぁ
泥をすするという言葉も解釈に揺れがある
泥をすることの自分の心理的なコストがどの程度大きいのか小さいのか
コストが大きく感じるんであれば、それは支払うことができない
コストがそれほど大きくないのであれば、支払ってでも実績を取りに行ったほうがいい
これもまたプレイヤー本人の主観的なものである
同じ行為に対してコストを高く感じないと言うのは1つの能力である
同じ行為に対して他の人よりもコスト高く感じてしまうと言うのは1つの欠点である
とは言え、このコストの感じ方は個人に強く結合していて、他人がどうこういって変わるものではないと思う。
なので、個人的にはどちらの意見もわかるんだが、たとえある人が別の人に対して筋の悪い進め方をしていると感じたとしても、その本人が筋が悪いと思っていないんであれば、その本人がやりたいようにやって、その結果から本人が学ぶしかないと思う
そのやり方が筋が良いか悪いかも、個々人の主観的な価値観によって影響されるもの
他人がどうこう言うことではない
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