思考の結節点2023-04-24
T: 先月から某所で「大人の学び」をテーマに講義しているのですが、学習とはつなげるプロセスである!ってずっと言ってて、このコンセプトはどこから来たのか自分でも不思議だったのですが、今わかりました。KJ法ですわ。 より正確には「つなげないと学びが未完成のまま」って言ってます
T: 多分これって西尾さんの言ってたことの受け売りですね
N: 僕そんなこと言ってないよw
T: そうでしたっけw
T: それはもう予想してましたよ!
なんかこういい感じの表現あったら教えてくださいw
まあこれは川喜田二郎が言ってる抽象的な話を僕なりに表現したものだ 考える花火で導き出された結論には不思議と従いやすい 次の二ヵ条が不可欠な要件と考えられる。
データのコマがそろっていること
全体像が掌握できること。
考える花火では、前者がネットづくりによって、後者が統合図解化
これに対して統合図解化は、表現された矛盾・葛藤を素直に、しかも綺麗に乗り越える。すなわち、「知的認識」の弁証法的創造である。この両者が運動して考える花火は成立する。 p.338-339
結論に従えるということは、その結論に基づいて私たちが行動を起こすということである。 二層構造の世界について考えてみよう。
一旦論理的整合性を持つ知的認識が形成されると、その元にある体感認識を形成していた身体は知的認識のレベルに、弁証法のプロセスに乗って移動するのである。 すなわち、言葉が体を創るのである。 そして知的認識は、思想としての新たな体感認識となり、創造されたこの体が行動を創るのである。
...そして、これによって生まれた行動は、新たな体感認識をもたらし、新たな矛盾・葛藤を胚胎することになるのである。
私たち人間は、日々食物栄養を摂取し、呼吸をして生命体を維持している。と同時に、さまざまな状況の中で判断し、決断し、行動することによって「命」を燃焼させている。ここで述べた体感認識における矛盾・葛藤は、食物や空気とともに、私たちの「命」の生成の源動力であり、智恵と創造の母なのである。だから、考える花火は、矛盾・葛藤に起点をおく「命」の生成プロセスを原理的に内在させているといえる。まさに心のはたらきの表現であり、「心のはたらき」 をそっくりそのまま技術化したものなのである。 しかも、「人間が考えるとはどういうことか」「人間が悩むとはどういうことか」を、実技的に教えている。その意味で、原理的には生命体の思索原理を人間レベルで外在化させた技術なのである。 N: モヤモヤ悩んでる(体感)なら、まずはそのモヤモヤを紙の上に出せば良い、その後で知的認識で解決すれば良い