思考の結節点2022-05-25
思考の結節点2022-05-25
キャリブレーション会まとめ
ある現象Aを見て「これは『主観』ですね」という
これは良くないのではないか?
具体的な土の匂いのする現象を、漂白された抽象概念にしてしまっているのでは? 「では『主観』とはなんだろうか?」
この問いの立て方はおかしいのではないか?
具体的な現象を抽象概念の壺のなかに全部突っ込んでごちゃ混ぜにしてから「この壺はなんだろう」
ドリンクバーのドリンクを全部混ぜてから「これは何のドリンクだろう」「ドリンクであるという以外に何が言えるだろう」
ごちゃ混ぜにした時点で台無しになってる
具体的な元の話
「付箋に書き出そうとするときにどのようなサイズの付箋を選ぶかは主観」
付箋は文具なので手に馴染むものを使えば良い
特定のサイズの付箋に呪術的な効果があるわけではない
「しっくりくる」
これが主観
書き心地
iPadにサラサラシートを貼る人もいる
ペンの音
「キュッ」が嫌い
黒板チョークも嫌い
ホワイトボードマーカー
身体性
殺している感
「殺しているというからには、その前のものは生きているということだと思うが、どのように生きているのか」
植物のような、芽が生えて枝が伸びて根が伸びてするようなもの
これを箱に押し込めて殺している
生きている木と、四角い木材のブロック
「生きていると何が良いのか」
発展する
新しいものが生み出される
共通言語化
「AはXだね」「うんXだね」
何も生まない
「AはXだね」「そうか?」
https://gyazo.com/425b7d4590c81d54a81064cc8fac1511
二人のXの意味がズレていることによって、どこが共通でどこが差異かを掘り下げることができて世界の解像度が上がる
細分化
視点が異なっている
視点が異なっていることを楽しめる人とそうでない人がいる
十分認知の解像度が高ければ「人の考え方は一人一人異なっている」と見える
ぼやけたメガネで見るから「同じ」に見える
「わかりあえる」=「差異を互いに認識していない状態」
これは「差異がない」を意味しない
差異がないのが嬉しい人がいる
違うから面白いという人もいる
「面白い」だと主観的、個人の価値観の話
「違う視点が創造に有益」
異なる意見をぶつけることが有益であるという考え方
これも個人の価値観か
「創造しない」も多様性
創造性とは何か
毎日同じ絵を描くのは創造性か?
Aさんが毎日絵を描いてBさんが「毎日同じ絵を描いている」と解釈した場合
実際はAさんにとっては毎日が新しいチャレンジかもしれない
変化をBさんが認識できてないだけ
よくある。親が「子供がずっとマイクラしている、同じことばかりして飽きないのか」とかいう
子供は毎日新しいものを作ったり、新しいことを試したりしてる
自分に創造性があるかどうかを認識できるか?
そもそも「創造性」は実在するのか?
「作って楽しい」
「作ったものが社会の役に立つ」
「楽しそうに作ってる人」
「作られたもの」
これらとは異なる「創造性」自体は存在するのか?
観測不能?
最初は便利
関係があるものを全部その箱に入れていく
箱の中のものがたくさんになってくる
雑に箱に入れるようになる
良くないのでは
出して整理し直さないといけないのでは
凝り固まった言葉をほぐすマッサージ
出来上がったレゴを分解する
キャリブレーション?
センサーが狂ってるメタファー
バグってることに気付けなくなる
箱と壺の違い
箱は段ボール箱で、物を入れた後、また出せる
壺は液体を入れて混ぜてしまう、元のものを取り出すことができない
ヒューマンジー
アルゴリズムから人間の行動がズレている場合に人間をバグだとするのはアルゴリズムが正しいことを仮定している
二人の会話と三人の会話の違い
三人だとAが話し終わったときにBとCのどっちが話すのかに関して空気の読み合いが発生する
空気を読むのめんどい派
AとBの会話が盛り上がり、BとCの会話が盛り上がるなら、AとCの会話も盛り上がるか?
そうとは限らない、ボールを最初に投げる人がいなければキャッチボールが始まらない
反論=違う視点からの観察結果、が欲しい
違えば何でもいいわけではないのでは
たしかに
相手に対する信頼が必要
信頼とは価値の見積もり
違う意見を理解することにはコストが掛かる、コストをかけて理解したときに得られる価値があると考えなければ理解する行動は生まれない
軽視している、コストを払わない、スルー
Twitterの投稿、無数にある、すべてにコストは払えない
イエスマン=異なる意見を言わない人
観測範囲の問題の可能性
Aから見てBがイエスマンであるとき、Bがイエスマンなのではなく、Bから見てAが「意見を言うとめんどくさい社会コストが発生する人」なために意見を言うことを避けている可能性
主観的な見積りは人間のバグか?
「客観的な見積りが可能なのに主観的に見積もりをしてしまって正しい見積りができない」なら人間のバグ
だけど「客観的な見積もり」が不可能だと思う、不確定要素が多すぎて
主観的見積もりも客観的見積もりもどちらも正確でないのなら、主観的にやる方が楽しい、楽しさの分だけ得
この場合「客観的見積をしなければならない」という思い込みがバグ