庭の話
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ogawa_kimiyo わたしにも8年間無職の時期がありましたが、宇野さんにもそれがあって、その期間に過ごした経験が今の宇野さんの知的フレームワークになってる。「久世橋のBOOKOFFが私に与えてくれたものは少なくないと思う。私はここで「たまたま」目にした片岡義男の『スローなブギにしてくれ』の文庫本や、 ogawa_kimiyo 大島弓子の『秋日子かく語りき』の単行本を手に取って、パラパラ」ったあとに結局買って戻った記憶がある。別にとくにこれらの本を探していたわけでもなければ、以前からずっと読みたかったわけでもない。…ほんとうに「たまたま」その日の気分とか、体調とか、その前日の数日に友人と交わした会話とか ogawa_kimiyo 土手から見かけた景色とか、そういったものに左右されておそらく私はこれらのものを買い求めていた。」私も無職のときブックオフにしょっちゅう行ってて、選んだ本が人間として生きている実感が湧く向田邦子のエッセイとか柳宗悦、西谷啓治の本でした。自転車で古本屋めぐりをする時間が山ほどあった。 ogawa_kimiyo 宇野さんは、「情報記述によって画一化された貧しい身体を用いた相互評価のゲーム」が繰り広げられる「プラットフォーム」と、人間が「たまたま」「偶然に」多様な事物に出会うような「庭」は根本的に違っていて、人間の身体を含む生態系が「閉じているか、開いているか」の差異があると書いています。 ogawa_kimiyo まさか『ビリー・バッド』の嫉妬心を抑えられないクラッガート船長がビリーを死刑まで追い込んで行った悲劇と『TERRACE HOUSE』をめぐり誹謗中傷が渦巻いていったプラットフォームを類するものとして考察するとは。「プラットフォームのユーザーは「身体」からかなり強く解放されている」という問題。 ogawa_kimiyo 「庭」に立ち返ると、宇野さんはフランスの庭師ジル・クレマンをヨーロッパの伝統的なシンメトリー的な「庭」の抵抗者として論じていますが、それは新宿御苑にも作られている「イギリスの庭」にも通じていて、メアリ・シェリーはロマン主義文学を勢いづけた18世紀のピクチャレスク運動を牽引した一人。