幼年期は終わる。今こそバベルの塔を建てよう
@ochyai: そろそろ6年前になる記事(私のシンギュラリティ観驚くべきほどに変わらない)
2017年へ:「幼年期は終わる。今こそバベルの塔を建てよう」(前編) | FUZE
落合 陽一
幼年期の終わり
バベルの塔
「集団への体験共有」から「個人の能力拡張」への大きな舵きり
「楽観的シンギュラリティ」と「テクノフォビア」
今後、現実のあらゆるものが、物質か実質かの区別なく操作されていくだろう、それを何と呼ぼう? 僕は複合現実(Mixed Reality)というよりも新たな自然「デジタルネイチャー」と呼んでいる
イ・セドルを囲碁で打ち破ったのは機械ではなく、囲碁の専門家ではないが、コンピュータ親和性の高いエンジニアリングの専門家だ
2040年に職がなくなるという漠然とした展望に何の価値があっただろうか? その多くは前世紀の終末論に似ていた。
この世界のどこにベーシックインカムで暮らせるローカルが存在するか。それは青いアメリカにある。人間が人間にしかできないこと――クリエイティブな活動をすることで余暇を潰すことで生きていくような世界は、そしてそれを可能にするほどの富が集まる場所は、そこにしかないだろう。
機械との親和性を高めコストとして排除されないようにうまく働くか、機械を使いこなしたうえで他の人間から職を奪うしかないのだ。この構図は機械対人間ではなく、「人間」と「機械親和性の高い人間」との戦いに他ならないのだから。
テクノロジーの流動性がもたらす「プロトピア」
ケヴィン・ケリー
プロトピアは技術革新を繰り返す流動性によって徐々に良くなっていく世界観であり、自己組織化した画一的でない「まともなディストピア」の姿でもある。言うなればある種、楽観的なテクノロジー思考だ。
起こりうるディストピアやプロトピアより、その最大の障壁はテクノフォビアそれ自体...閉塞したシステムではなく、システムの変化を憎むテクノロジー嫌いの権力のほうが恐ろしい。民主化を阻む権力は、より歪な格差を生み出す。
魔法の世紀
マスメディア型の情報伝達系が世界を支配した20世紀を「映像の世紀」と呼び、
その対比として、コンピュータによってあらゆるものが「ブラックボックス化」=「魔術化」した今世紀の姿を「魔法の世紀」と呼んだ
アメリカの社会批評家モリス・バーマンの『世界の再魔術化』という本になぞらえて
貧者のVR=「あってほしいそれっぽい現実」
オックスフォード大学出版局は今年の言葉として「Post-Truth(ポスト真実)」を選んだ。
客観的な事実や真実が政治的な選択において重要視されないという意味である。
ここに僕は21世紀の人間性を垣間見た感覚を覚えた。
真実は正義なのだろうか? そして虚構は悪なのだろうか?
複数のコミュニティと価値観がある中で統一の感情とルールとゲームを作ることに意味があるのだろうか?
ルールに対する「べき論」で語るよりは、経済や感情面での相乗効果を考えたほうがいいのではないだろうか。
一つの流行や価値観を求めることはもうできない。
多数決はそれぞれのコミュニティと少しずつ食い違った現実をもたらす手段だ。
今起こりつつある変化、真実ではなく意見の時代、それを一言で表すなら「人類の適応」と言えるだろう
テクノロジーで変化する前の我々の習慣や規範や考え方によって、それ以後の人類を推し量ろうとするならば、それはテクノロジーとの間に摩擦を起こす。今起こりつつある変化、真実ではなく意見の時代、それを一言で表すなら「人類の適応」と言えるだろう。