川喜田二郎は抽象化せよとは言っていない
KJ法の表札作りの過程で、結果的に抽象化が起きる。しかし川喜田二郎は「抽象化をせよ」とは言っていない。むしろ「けっして抽象化しすぎるな」と言っている。 表札が思いつかれるのは、何枚かの「親近性のある」紙きれの一行見出しが、単に文字記号面だけの意味だけでなく、その意味の中心を取り巻いて、その周囲にモヤモヤと連想的雰囲気をたたえているからである。一行見出しを作るときに、「けっして抽象化しすぎるな」、「堅くるしい熟語や術語にこだわるな」、あるいは「できるだけもとの資料の土の香りを残せ」などという注意をあげたのは、ここのところである。最少必要限度の「概念化過程」が大切なのであって、不必要に「概念」にまで仕上げてはならないのである。(発想法 p.141) これはなぜかというと「抽象化」という言葉自体が抽象的だからだ。
「抽象化をせよ」と言われても、人は具体的にどういうアクションをすれば良いかがわからない。
だから、表札作りの過程を「抽象化」と呼ぶことは、それ自体が過度の抽象化なのだ。 関連
川喜田二郎はこのことを説明しようとして「抽象的」と「観念的」の区別をした。
「抽象化しよう」とすることによって、具体性の上にしっかり積み重なってないものができてしまうことを「観念的」と呼んだ
(西尾はよく「具体的事実にしっかりと根を下ろしていない」「浮き草のような抽象概念」という表現をする。see 浮き草と樹木のたとえ) グループ編成が高次元になるほど、表札は抽象的になるのだろうか。そう考える人がかなりいる。しかし私はここでまず「抽象的」という言葉と「観念的」という言葉を、私流に区別したい。不的確なグループ編成をしていくと、何段階かグループ編成を積み重ねるうちに、実態からどんどん浮いたものに外れていく。ついには荒唐無稽なものになり、実態把握は崩壊してしまう。こういう状況になるのを「観念的」と呼びたい。
これに反し、的確なグループ編成を積み重ねると、ますます物事の核心に喰いこんでゆ く。こういうのを抽象化と呼びたいのである。 だから、「抽象的」と「観念的」とは非常にちがう。この意味で抽象的というのならば、グループ編成が積み重なるほど抽象的になるのだと形容してもよいのかもしれない。そうして、こういう意味でなら、抽象度が高まるほど、ますます具体的な物事の核心に迫る力を備えるのである。「抽象的になるほど具体的な物事の役には立たなくなる」という誤った俗説がかなり多いので、特につけ加えておく。これを比喩的に図にすれば、第26図のようになろう。(KJ法 渾沌をして語らしめるp.153-154) https://gyazo.com/987bf8eaf0a3f74ecfacceaf75c7db3a