可謬主義と訂正可能性
nishio.icon可謬主義と東浩紀の訂正可能性って何が違うんですか?
o1 Pro.icon「可謬主義(fallibilism)」は、あらゆる知識が誤りうる可能性を認め、絶対確実な根拠はないという認識論上の立場です。一方、東 浩紀が強調する「訂正可能性」は、その「誤りうる」前提を踏まえつつも、常に情報や議論を更新・修正し続けられる状態を積極的に確保することを重視しています。 つまり、可謬主義は「絶対に正しい知識は存在しない」という姿勢を示し、訂正可能性は「その前提のもとで、いつでも柔軟に修正し、進化し続ける仕組みや態度を保つ」ことを指しています。両者は近い概念ですが、東浩紀の強調点は“改訂・アップデートのプロセスやシステムとしての意識づけ”にあるといえます。
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「正しい」ことは望めないから「修正できるシステムにしよう」ってことだな