全体最適は適応力を失わせる
落合によれば、デジタルネイチャーが誕生することで、人類は不安定な市場原理に頼らずとも資源を最適に配分できるようになる。生産力は飛躍的に増大し、人間ひとりひとりの特性を分析して最適な社会的役割を提供できるようにもなる。そこまでは問題ないのだが、つぎに落合は、そのとき人類は、ひとにぎりの先進的な資本家=エンジニア層(AI+VC層)と、残り大多数の労働から解放された大衆層(AI+BI層)に分裂することになるだろうというのである。「AI+VC」は、人工知能に支援されてイノベーションに挑むベンチャーキャピタル(VC)の担い手を意味する落合の造語で、「AI+BI」のほうは、政府によるベーシックインカム(BI)で衣食住を保障されつつ、人工知能の勧めにしたがってそこそこの幸せを追求する生き方を意味するらしい。...その一部の選良層(AI+VC層)は、もはや個人の幸福のような小さな目標には関わらない。かわりに大きな視野でイノベーションを進め、「コンピュータがもたらす全体最適化による問題解決」によって種全体の幸福を実現する。だから、自由や平等のような古い考えにしばられる必要はないというのだ。落合は『デジタルネイチャー』で、来るべき世界においては「人間」の概念こそ「足かせ」なのであり、人々は「機械を中心とする世界観」に対応しなければならず、「全体最適化による全体主義は、全人類の幸福を追求しうる」のだから「誰も不幸にすることはない」とはっきりと記している(PLANETS刊、181、219、221頁)。 --- (5ページ目)落合陽一、ハラリは「夢想的で危険」東浩紀が斬る“シンギュラリティ”論に潜む“選民思想” | 文春オンライン mshouji 文藝春秋5月号で全文を読み非常に考えさせられた。カーツワイル、落合陽一、ハラリに代表される人間信仰・技術信仰的議論に対して僕らは冷静になるべきかもしれない。 mshouji しかしなぁ。東さんが指摘している2010年代どころか、2000年代から20年以上にわたって情報社会学を掲げてきてしまったので、自分の中でこの議論をどう消化していくかはゆっくり考えたいと思った。 fpocket 同感。全体最適=善という思想に問題が凝縮されていると感じています。オードリー・タン氏も指摘しているように、最適化するには目的関数が必要ですが、その目的関数をどうやって決めるのかが問題だと思います。全体最適は集合知を機能不全に陥れて人や社会の適応力を失わせる結果になると考えています fpocket 具体的に言えば、最適化するには何が最適かを知っている必要があるが、複雑系のような予測が機能しない環境で何が最適かを決めるのはほとんど不可能だ。もし予測が間違っていたら全滅する。そんな脆弱な社会を目指すのは愚かだと自分は思うが、日本でも全体最適=善という思想が広まっていると感じる。