体験的に自明
体験した人にとっては自明だが、体験してない人にとってはわからないタイプのものごとがある 体験してない人にも言葉で納得させることを良しとする価値観がある
しかし、
体験した人の間で「自明である」に合意があるなら、
体験してない人が「言葉で納得させるべき」と主張することは
それが合理的と考えるのは暗黙に「言語化のコストは体験のコストよりはるかに安い」と仮定している
この仮定は必ずしも正しくない
この誤った仮定に基づく価値観は「言語化しやすいものが優遇される」というバイアスを産む
関連
例えば我々は重力を生まれた時から体験しているので「物が見えない力に引かれて勝手に下に移動する」ということを疑問に思わないが、無重力空間で生まれ育った人が「物が触れもしないのに見えない力で動く?なんで?」と質問したらどう答えるのか。
表記揺れ
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「体験的に自明」という表現には、「自明」と「体験的」という2つの意味が含まれています。「自明」とは、自明であること、明白であることを意味し、「体験的」とは、体験に基づくということを意味します。
「体験的に自明」の意味は、体験したことによって自明であることを表す表現です。しかし、そのような経験を共有できない場合、他の人にとっては自明ではなく、説明が必要となる場合があります。
一方で、「体験的に自明」に対して、他の人が説明を求めることがある場合、その人が「体験のコスト」を支払っていないことがあります。それは、体験者が自分の体験を言語化するためにかけた努力、時間、エネルギー、ストレスなどを指します。つまり、体験者は自分の体験を共有するために多くのコストを支払っているのに対し、他の人はそのコストを支払っていないため、そのような価値観は公平ではないとも言えます。
また、「体験によって基礎付けられた公理を導入」というのは、体験に基づく公理を基盤として、その上に知識や理論を構築することを意味しています。重力の例で言えば、私たちは生まれたときから重力にさらされているため、重力という概念が自明であり、それを公理として導入することができます。
しかし、無重力環境で生まれ育った人にとっては、重力という概念が自明でなく、その存在を疑問視することがあるかもしれません。その場合、重力という概念を説明し、理解を促す必要があるでしょう。