他人に対する無条件批判を自分への批判と受け止める傾向
そう解釈する必要はないことは頭ではわかっているのだが、いつもダメージを受けるので言語化しておく。
Aさんがいない場所でAさんの特性に対する言及がされる
例えば「Aさんには笑いのセンスがない」とか。
「AさんはXなので笑いのセンスがない」という制限がついていないケース
これは僕には、僕に対する言及に見える
つまり「西尾は笑いのセンスがない」とその場で言われているのと同様に見える
Aさんがいる場所で、もしくはAさんに話しかける形で言及している場合はこの現象が起きない
Aさんに対してBさんが直接「お前は笑いのセンスがない」と言ってる場合
このケースでは「西尾は笑いのセンスがない」と言われた気持ちにはならない
なぜか?
「『AさんはYだ』と言及されている」という事実が観測されている
これはAさんがいない場所で行われたのでAさんは観測できない
つまり事実として『Aさんは「『AさんはYだ』と言及されている」という事実を知らない』が観測されている
僕は現時点で「『西尾はYだ』と言及されている」という事実を観測していない
しかし、これはその事実が存在しないことを保証するものではない
論理的には「現象が存在しないことを保証するものではない」なので「存在する」とも「存在しない」とも言ってない
大部分の人のは「自分は言われていない」と思うようだ。これは非論理的な認知の歪み。
僕は「自分も言われている」と思うようだ。これも非論理的な認知の歪み。
僕の人間に対する一般化ロジックはAさんと自分を容易に同一視してしまう
逆に言えば多くの人は自分と他人を容易に「違うものだ」って分離してしまう #自分と他人の同一視
ベイズ推定としてはこの観測によって自分が言われている確率は上昇するよね
Bさんが直接Aさんに言っているのを見ても自分が言われた気にはならない
それは「Aさんが観測できてない事実」ではないから、自分が観測できてないものの存在を示唆しないため
「AさんはXなのでYだ」と言われているケースは、Xが自分に当てはまるかどうかで自分に言われている気持ちが変わる
自責
自分への批判と受け止める
自分への攻撃
他人に対する批判を自分に対してのものと感じてしまう
批判
陰口は自分が対象
陰口