人間をリソースと呼ぶことの何が問題なのか
claude.icon記事の要約:
背景:
人間を「リソース」と呼ぶことへの批判がある一方、経営管理上の必要性も指摘されている。
著者は、この問題の学術的見解と根本原因を探究した。
20世紀中盤のアメリカで、労働生産性低下と労働疎外問題への対応として誕生。
HRMの基本理念:
経済的資源としての人間重視
人間的存在としての人間重視
人間をモノ・カネ・情報と異なる特別な存在として扱う
現代の問題点:
HRMの理念が忘れられ、経済面・戦略面に偏重した運用がされている。
人間性を無視し、単なる労働力としてリソース扱いする傾向がある。
実務上の課題:
人間をリソースとして扱うことで、モチベーション低下や職業倫理の喪失が起こり、生産性が低下する可能性。
組織文化の衰退や破壊につながる恐れがある。
結論:
「リソース」という呼称自体が問題なのではなく、その背後にある経営管理の姿勢が重要。
HRMの本来の理念に立ち返り、人間性を重視しつつ経営に活かす姿勢が必要。
著者は、この問題を単なる呼称の問題ではなく、より深い経営管理の課題として捉えることを提案しています。
ビジネス目標に対してコミットしていたら、そのための「リソース」であってもかまわないんだけど、人から認められたいをベースに動いてる人は、「リソース」と呼ばれるとキレるという
目的達成のために動いている人は自分自身も含めてリソースだと考えているので他人に対してもうっかりリソースと言ってしまったり、それに反発する人がなぜ反発するのか理解できないなという気持ちになる 反発する理由はフォロワーシップの欠如だというのがtokorotenの仮説
多分あんまり正しくない
そもそも「ある人PがXであるかどうか」と「ある人PがXと呼ばれることにどのような感情を持つか」はまったく別の話
「ホモサピエンス」「黄色人種」「アラサーのオス」は全部僕に対する正しい表現
本当にムッとくる表現は自分ではなかなか思いつけないので、これらの表現はまあまあ許容できる
「ある人PがXと呼ばれると不愉快になることが既知の場合にXと呼ぶか」
友好的な関係を保ちたかったら呼ばないのが合理的だろうな
つまりXと呼ばれる人は下記のどちらか
不愉快になることが知られてない
友好的な関係を保ちたいと思われてない
自分がRであると自認している人Aと、自分はRでないと自認している人Bがいるとき、Aは他人をRと呼ぶことに問題があると考えないが、BはRと呼ばれることを不快に思う、のRにたまたま「リソース」が代入されただけの気がしてきた 僕は明らかに自分がリソースであると自認している
その限られたリソースをどう活用すると自分の幸福が増大するかを考える
自分がリソースであると自認していない人がどのように考えて生きているのかわからないが、わかる必要はない 一般論として、他人がどう感じるかを自分がどう感じるかの延長で考えると時々間違えるってこと