万物の黎明
claude.iconこの一連のツイートは、デイヴィッド・グレーバーとデイヴィッド・ウェングロウによる著書『万物の黎明』について述べています。
主なポイントは以下の通りです:
本書は今後数十年にわたって人類史に関する議論の土台となるだろう。 従来の人類史観とは異なり、考古学的な証拠は先史時代の人類社会がより複雑で多様であったことを示唆している。 過去には、現代では考えられないような平等主義的な社会や、男女同権の観念が存在した。 歴史を画するとされてきた「テクノロジーの革新」も、突然変異的ではなく、長い年月をかけて多くの人々によって進められてきた。
人類史は発展史や直線的な進化史ではなく、現代の近代国家や資本主義に支配された世界は多様性を失っている。 人類史は、私たちの思考の束縛を解き放つ手がかりに満ちている。
このように、本書は従来のビッグ・ヒストリーとは異なる視点から人類史を捉え直し、現代社会の在り方を問い直すきっかけを与えてくれる重要な一冊だと述べられています。
今後数十年は本書が人類史に関する議論の土台になるだろう。ビッグ・ヒストリーは万人にウケる。『サピエンス全史』もその先例だが、著者のハラリは専門家ではない。一方で、本書は専門家による人類史再検討書・素描書である。この本を読めば、『サピエンス全史』のヤバさがよくわかる。→
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nobushiromasaki 人類史は長らくこう捉えられてきた。長い先史時代があり、農耕革命や定住革命はじめさまざまなテクノロジーの革新があり、さらには都市や国家の誕生などを経て共同体も巨大になる中で現在のグローバル社会が誕生したと。ハラリもジャレド・ダイアモンドもスティーブン・ピンカーもこの路線を基本的に→ nobushiromasaki 踏まえる。だが、このように総括するにしては、考古学的な「例外」の史跡があまりにも多く発見され過ぎているのが現在だ。たとえば――先史時代の人類の思考様式は、現代人と比しても十分に複雑で、良質で、決して素朴ではなかった。野蛮でもなかった。「万人の万人による闘争」とは違った暴力性の低い→ nobushiromasaki 社会も存在した。そしてかつては、多くの共同体が多種多様な社会体制・社会構造を採用したり変えたりして試行錯誤を繰り返し、ある意味でよりよい社会を構築する「競争」をしていた。また、21世紀は平等主義の追求が加速している時代といえるが、かつての人類は、ヒエラルキーも無しに都市を運営する→ nobushiromasaki という(現代では考えられない)平等主義的社会をすでに実現していた。巨大遺跡はしばしば、階級制度やヒエラルキーによる人々の「酷使」の証拠と見なされてきたが、決してそうでもなかった。こういった過去を示唆する証拠も多数あるのである。それだけではない。男女同権や先進的なジェンダー観念も→ nobushiromasaki 古くから局所的に存在した。われわれは、ただそれらをいつしか「忘れて」しまったのである。共同体だって、近代国家が生まれるはるか以前から、私たちの想像を超える巨大な組織体として存在していた。加えて、歴史を画するとされてきた「テクノロジーの革新」も、突然変異的にというより、なだらかに→ nobushiromasaki 起こってきたことを考古学的知見などが示している。たとえば農耕革命は、数千年の年月をかけながら大小の試行錯誤と革新の中で、特殊な天才によってではなく、「みんな」によって進められた。しかもそこにおいて力を発揮したのは実は「女性」たちであった――。そう、人類史は決して発展史でもなければ→ nobushiromasaki 直線的な進化史でもないのである。むしろ本書は警鐘を鳴らす。これほどの多様性に満ちた人類史に比して、現代は近代国家や資本主義といった統一的な、あるいは極めて近似したもので世界が占められている。それゆえに、「資本主義以外の世界のあり方」「国家以外の、国家なき社会体制」等を私たちは→ nobushiromasaki ほとんど想像できないでいる。これは思考の自由を「奪われた」状態といえまいか――。人類史は、私たちのこの思考の束縛を解き放つフックに満ちている。ぼくらはいったん、安易なビッグ・ヒストリーを手放さなければならないかもしれない。 『万物の黎明』
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グレーバー他著