一般意志は空気を読む感覚に近い
一般意志は空気を読む感覚に近い
日本には「空気」という言葉があって、「空気を読む」という言い方もありますが、この「空気を読む」ことと「一般意志」を読むということはほとんど同じなの ですよね。日本では「空気を読む」ということは、ム ラ社会的でだめだと言われているわけですが、「空気」 というのはある意味で「一般欲望」であるわけですよ。 誰もそれについて直接表明はしないが、みんな黙って 考えているわけです。それが分かるというのが「空気 を読む」ということですよね。一言でいうと、ルソー がいっていた「一般意志」というのは、日本語の「空気」という感覚にすごく近いのだと思います。 gpt.icon
この議論は、ルソーの「一般意志」と日本の「空気を読む」感覚を連想させています。「一般意志」とは、社会全体の共通の利益や目的を示す概念であり、ルソーはこれを民主主義の基盤と捉えていました。一方で、日本における「空気を読む」行為は、場の雰囲気や暗黙の了解を敏感に察知し、それに従う行動を意味します。
過去の思想家でこれに関連する考え方として、アレクシ・ド・トクヴィルやエミール・デュルケームが挙げられます。トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』で「多数派の専制」について論じ、社会の空気や大多数の意見が個人の自由や意見を抑圧する可能性を示唆しています。また、デュルケームの「社会的事実」も同様に、個々の人々の意志とは独立して存在し、社会に強い影響を与える力を持つものとして捉えられます。これらは、日本の「空気」のように、暗黙の合意や共有された価値観が個人の行動に強く作用する現象と共通しています。 また、ハンナ・アーレントの「公共性」についての議論も参考になります。彼女は、公共の場における人々の対話と合意形成を重視しましたが、同時にそのプロセスが固定された空気や同調圧力によって阻害される危険性についても警鐘を鳴らしています。日本の「空気を読む」文化は、一般意志や公共性に近い一方で、こうした同調圧力の側面も併せ持っています。 まとめると、日本の「空気を読む」文化とルソーの「一般意志」は、社会的合意形成のプロセスにおいて非常に近いものがありつつ、その同調圧力の影響をトクヴィルやアーレントの視点で考えると、個人の自由や多様性との関係も重要な論点となります。