プライバシー権という有害なミーム
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成人の公開
広場の中心に立つ碑には、過去語りの一文が刻まれている。
当たり前の話だ、と祖母は肩をすくめた。「隣家のCO濃度が見えずに一家心中が相次いだ頃だよ。隠すことが礼儀だったからね」
今日は私の成人の公開。手首のライフバンドの封印が解かれ、呼吸、睡眠、移動、購買、近隣への影響値がコミュニティに接続される。
公開は罰ではない。責任の可視化だ。自分の状態が他人のリスクに直結する領域を、私一人の判断で覆い隠す権利はない――それが私たちの常識。 儀式の前に、学校で見た記録映像が思い出される。
感染拡大期、匿名と暗号の壁に阻まれて接触網が途切れ、追跡の穴から指数関数が芽吹いた。物流の遅延は企業秘密で伏せられ、人工透析薬が都市単位で消えた。
公開基準が導入されると、地域死亡率は42%落ち、救急の平均到着は7分短くなった。誰もが因果を見て、反実仮想を共有できるようになったからだ。 「でもさ、恥とか、弱みとかは?」と、私が幼い頃に一度だけ訊ねたことがある。 祖母は笑ってライフバンドを指ではじいた。「恥は非公開で守られるんじゃない。文脈で守られるのさ。私たちは“影響領域だけ開く”。手紙の草稿や、まだ言葉にならない感情は、影響が確定するまで遅延公開に入る。未確定の内面は守られる。でも、排気ガス、感染兆候、金銭フロー、意思決定ログは、他者を直撃する。だから見えるようにする」
広場のスクリーンに、昔の議論が映る。
「個人情報は個人のものだ」というスローガン。拍手喝采。
祖母は首を傾げる。「“もの”って言葉が悪さをした。外部不経済は“もの”じゃない。空気と同じ共有財だ」 司式者が合図し、私の公開プロファイルが点灯する。
心拍が安定していること、昨夜の睡眠が不足気味なこと、明日の通勤時刻、電力使用のピーク時間帯――コミュニティの制御器が私のデータを受け取り、最適化の微調整を始める。
通りの端にある掲示板が淡く光り、ルーティングが数センチずれて渋滞が消える。向かいのパン屋の焼成タイミングが繰り上がり、廃棄予定だったバゲットがゼロになる。
見えることは、誰かを助ける普通の機構だ。
儀式の最後に、私は宣誓文を読み上げる。
私は、私の状態が他者に影響を与える領域を、遅延なく共有する。
私は、他者の影響を測り、補正し、返礼する共同体の一員である。
私は、未確定の内面を熟成させる沈黙を尊びつつ、確定した外部性を隠さない。
拍手が起きる。祖母が小声で付け加える。「これで君も守る側だ。隠す自由より守れる自由の方が、ずっと大きい」 私はうなずく。
碑文の一文は、もはや嘲笑ではなく歴史用語として胸に落ちる。
あの時代の人々は、悪意ではなく欠測の危険を知らなかったのだ。 私たちは知っている。だから、見せる。
それがこの時代の、当たり前だ。