ヒューム的懐疑
因果関係に理性的な根拠はなく、単に因果関係があるように感じているだけなのでは?という考え方 観察と経験から因果関係が帰納によって正当化されるということはありえない。 なぜなら、帰納の根拠となる自然の自然の斉一性の原理は実際に観察も経験もされず、論証されることもないからである。 これは物理とかに対してもそう思うってことなのかな/villagepump/基素.icon
1: 「実験AをやってBという結果になった」
2: 1を何度も繰り返した
3: 科学者が「AをやるとBという結果になる」と結論する
この2と3の間に論理的飛躍があるという指摘
自然の斉一性原理(しぜんのせいいつせいげんり、 principle of the uniformity of nature)または単に斉一性原理とは、科学哲学の世界で用いられる言葉で「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけではなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえされるはずだ」という仮定 現代の物理学者もそれが真実と主張しているよりは、「実験的に確かめられ続けているので確かめずにこれに反していると主張する方が異常」というような見方な気がするから、そういう点ではヒューム的なのかな?/villagepump/基素.icon
自然の斉一性の原理は流石に仮定してるからヒューム的ではないのでは/villagepump/nishio.icon これを否定すると科学の成立のしようがないと思う
David Hume ユリウス暦1711年4月26日〈グレゴリオ暦5月7日〉 - 1776年8月25日) 確実な知に人間本性が達することが原理的に保証されていないと考えるものの、ピュロンのような過激な懐疑は避け、セクストスの影響を受け、数学を唯一の論証的に確実な学問と認める比較的緩やかな懐疑論を打ち立て、結果的に人間の知および経験論の限界を示した。
数学は認めている
Newton 1643年-1727年の力学はこの時知っていたのかな? ある2つの事象(A, B)は互いに作用を及ばさないけど、Aが起きた後にBが起きるみたいなことを人が見た時に、AとBに因果性を見出してしまうってこと?/villagepump/biwachi.icon
9:00に閉店するスーパーAと、9:15に閉店するスーパーBが隣接していた時、スーパーAが閉店したらスーパーBが閉店するんだ(因果関係)と解釈してしまう人もいるかもしれん
「Aが起きた後にBが起きるみたいなことを人が見た時に、AとBに因果性を見出してしまう」この範囲がYes/villagepump/nishio.icon
人間が因果関係だと思ってるものは全部、単に出来事が前後して起きたのをみて因果関係があると思い込んでるだけなのでは?因果関係なんてないのでは?という懐疑主義
たとえば角砂糖に水を掛けると溶けて形がなくなるのを見て、多くの人は「水をかけたことが原因で角砂糖が溶けた」って考えがちだけど、水を掛けたのが原因だって主張は何を根拠にしているの?という話
なるほど。ふたつの事象が互いに作用を及ぼすか及ぼさないかは、ここではどうでも良いのか/villagepump/biwachi.icon
「因果性」という言葉を使わずに説明すると、/villagepump/blu3mo.icon
「Aが起きた後にBが起きる」を観測すると、その後「Aが起きた」後に「Bが起きる」と人間は推測しがち
しかし、これはアナロジーと同じで、パターンを見出しているだけ という認識/villagepump/blu3mo.icon
+1/villagepump/nishio.icon
実際にこういうことはよくあると思うので、ヒューム的懐疑をすると当たることも結構ありそう/villagepump/基素.icon