サイボウズLiveのアイデンティティ設計: 分人主義の視点からDiscordと比較
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サイボウズLiveのアイデンティティ設計: 分人主義の視点からDiscordと比較
分人主義とは何か – 人は状況ごとに複数の人格を持つ
現代の哲学・思想で語られる「分人主義」とは、ひとりの人間の中に関係性や場面ごとに異なる人格(分人)が存在するという考え方です (1)
従来の「個人(individual)」観では「変えようのない一つの真の自分」が中心にあると考えがちですが、分人主義ではその発想を転換します。人は職場、家庭、友人関係など環境に応じて別の顔を持ち、それら複数の人格すべてが「本当の自分」であると捉えるのです
つまり、人は状況によって自然に異なる振る舞いや人格を見せるものであり、それ自体が「仮面を被っている」といった偽りではなく全て本当の自分だという考え方です。このように一人ひとりが複数の自分(ペルソナ)を生きるという視点は、「趣味の自分」「仕事の自分」といった役割ごとのアイデンティティを肯定します。
(1): 「分人主義」公式サイト|複数の自分を生きる
サイボウズLiveの仕組み – グループごとにプロフィールを使い分ける設計
サイボウズLiveは、この分人主義的発想を先取りするようなアイデンティティ設計を採用していました。2010年のアップデートで追加された「マルチプロフィール」機能により、ユーザーは複数のプロフィール情報を登録し、「仕事用」「プライベート用」など相手や所属グループに合わせて見せ分けることが可能でした (2)
(2): サイボウズ、「サイボウズLive」に新機能を追加 | TECH+(テックプラス)
実際にサイボウズLiveではグループごとに異なるプロフィールを設定でき、参加するコミュニティ毎に公開する情報を柔軟に変えられます (3) 例えば、会社の同僚が集まるグループでは本名・所属企業を含むビジネス向けプロフィールを見せつつ、趣味サークルのグループではペンネームやニックネームのみのプロフィールに切り替える、といった使い分けがワンクリックで実現できました (4) この設計により、同じユーザーが状況に応じて別人格として振る舞うことがサービス上で自然に行えるのです。実際サイボウズLiveは企業だけでなく学生団体や地域コミュニティ、さらには同人サークルにまで幅広く利用されており (5) 趣味の創作活動用グループでは本業とは異なるハンドルネーム・キャラクターで参加するといったユースケースも容易に実現していました。サイボウズLiveのマルチプロフィール機能は、人が本来持つ複数側面を尊重し、コミュニティ単位でアイデンティティを切り替えられる先進的な仕組みだったと言えます。
(3): 詳細なプロフィールを設定するには | サイボウズLive | できるネット
(4): いますぐ押さえておきたい、サイボウズLive・プロフィールのもつ可能性 | Lifehacking.jp
(5): はてなブロガーと聞く、チャットツールとグループウェアが1つになったサイボウズLiveの魅力(はてなブックマークニュース出張所) - はてなニュース
Discordのアイデンティティ運用の問題点 – 単一アカウントによる「文脈の衝突」
一方、Discordでは基本的に一つのアカウントに一つのプロフィール(ユーザープロフィール)しか持てません。サーバー(コミュニティ)ごとにニックネームを変更する機能はありますが、アイコンをクリックすれば統一されたユーザープロフィールが表示されてしまい、参加するすべてのサーバーで共通のアカウント情報が露出します (6) このため、異なるコミュニティ間で名前を変えていても同一人物であることが容易に判別されてしまうのです(いわゆる「身バレ」のリスク)。加えて、Discord上でプライベート用と公共用などアイデンティティを完全に分けたい場合、現実的には別のDiscordアカウントを複数用意して使い分けるしかありません (6)
(6): Discord で1つのアカウントで複数サーバに参加したときに身バレを防げるか - 約束の地
以下にDiscordの単一アカウント設計による主な課題をまとめます:
異なるコミュニティ間での身バレ問題: サーバー間でプロフィール情報が共通のため、趣味コミュニティと職場コミュニティなど本来交わらない場でも同一人物だと露見しやすい (6) 結果として、ユーザーは発言や自己開示に気を遣い、本来の自分を出しにくくなる(コンテクストの衝突が起きる)恐れがあります。
複数アカウント運用の煩雑さ: アイデンティティの使い分けには別アカウントの併用が事実上必要となり、ログインの切替えや管理に手間がかかります (6) Discordは最近になってアカウントの切替機能を提供し始めましたが、それでもユーザー自身が複数アカウントを作成・維持する負担は残ります。
このようにDiscordでは一つの統合されたアイデンティティで全コミュニティを横断する構造上、プライベートとパブリック、趣味と仕事など人格の住み分けが難しい設計になっています。その結果、各コミュニティで異なる自分を演じる(分人を使い分ける)ことが難しく、ユーザーは必要に応じて匿名用アカウントを作るなど自己防衛せざるを得ない状況です。
サイボウズLiveの先見性 – 現代のアイデンティティ管理から考える
サイボウズLiveのマルチプロフィール設計は、今日のアイデンティティ管理の潮流を踏まえると極めて先見的でした。仕事用・趣味用と複数の顔を使い分けたいというニーズは現在ますます顕在化しています。たとえばビジネスチャット領域では、Slackがワークスペースごとに別個のプロフィールを持つ設計を採用しており、Discordとの大きな違いとして指摘されています (6) Slackでは会社A用・会社B用でユーザーの表示名やプロフィールを変えることができ、一人のユーザーが職場ごとに別人格で存在するような形です。さらに一般的なSNS利用に目を向けても、複数アカウントの使い分けは当たり前になりつつあります。ある調査では10代〜60代の全世代で6割以上もの人が何らかのSNSで複数アカウントを所持しており、特に20代では96%が裏アカウントを持つという結果が出ました (7) そして複数アカウントを持つ主な理由として、「趣味に関する情報収集をしたい」「リアルの友人に趣味の内容を知られたくない」といった回答が上位に挙げられています (7) これは裏を返せば、人々は現実にコミュニティや目的ごとにアイデンティティを分けて活動していることを示しています。
(7): SNSアカウントは複数所持が当たり前? 20代の96%が裏垢を持っている〖otalab調べ〗 | Web担当者Forum
こうした状況下で振り返ると、サイボウズLiveが当初からグループ単位でプロフィールを切り替えられるようにした設計は、まさに現代的ニーズを先取りしたものでした。ユーザーは一つのアカウントで複数のペルソナを持ち、関係性に応じて使い分けることができたため、アカウントを増やす負担なくプライバシーと自己表現の両立が可能だったのです。これは「すべての場面で一つの仮面を被るのではなく、場面ごとの自分をすべて本当の自分として受け入れる」という分人主義的発想の実践でもあります (1) いわばサイボウズLiveは、各ユーザーが自分の中の複数の分人をデジタル上で管理し、状況に応じて切り替えるためのプラットフォームを提供していたと言えるでしょう。
結論として、サイボウズLiveのアイデンティティ設計は当時としては珍しくユーザーの多面的な人格を肯定するものであり、今日問題となっている「コンテクストの衝突(context collapse)」を回避する先進的な試みでした。Discordのように一元化されたアイデンティティではなく、コミュニティごとに分人を持てる仕組みは、利用者の心理的安全性やプライバシー保護に大きく寄与します。現代のサービス設計でもこの考え方は徐々に重要視され始めていますが、サイボウズLiveはそれを約10年前から実装していた点で非常にユニークで意義深いものでした。 (2) (4)