コミュニケーションは一般意志の形成に有害
(東浩紀)僕はすごくおもしろい文章だと思っているのです が、「もしも人々が十分に情報を与えられて、かつ市民たちがまったくお互いの間でコミュニケーションをとらないのであれば、多数の特殊意志が集まって、常に一般意志が結果するであろう。そして、熟議は常によいものになるであろう」というような文章なのです。
gpt.iconこの引用は、ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の著作『社会契約論(Du Contrat Social)』第2編第3章に由来するものです。ルソーは、市民が十分な情報を持ち、互いに影響し合わない状況では、多数の個々の意志(特殊意志)が結集することで「一般意志(volonté générale)」が形成されると述べています。 原文
Si, quand le peuple suffisamment informé délibére, les Citoyens n’avoient aucune communication entre eux, du grand nombre de petites différences résulteroit toujours la volonté générale, & la délibération seroit toujours bonne. Mais quand il se fait des brigues, des associations partielles aux dépends de la grande, la volonté de chacune de ces associations devient générale par rapport à ses membres, & particuliere par rapport à l’Etat ; on peut dire alors qu’il n’y a plus autant de votans que d’hommes, mais seulement autant que d’associations. Les différences deviennent moins nombreuses & donnent un résultat moins général. Enfin quand une de ces associations est si grande qu’elle l’emporte sur toutes les autres, vous n’avez plus pour résultat une somme de petites différences, mais une différence unique ; alors il n’y a plus de volonté générale, & l’avis qui l’emporte n’est qu’un avis particulier.
gpt.iconもし、人民が十分な情報を与えられて熟議する際に、市民が互いに全くコミュニケーションを取らなければ、多くの小さな違いから常に一般意志が生まれ、熟議は常に正しいものとなるであろう。しかし、徒党や部分的な結社が全体の利益を損なう場合、それぞれの結社の意志はそのメンバーにとっては一般的だが、国家にとっては特殊意志となる。このような場合、もはや一人一人が投票しているのではなく、結社ごとの投票になり、差異が減少し、結果はより特殊なものになる。最終的に、こうした結社の一つが他を圧倒するほど大きくなると、小さな違いの合計ではなく、ただ一つの差異しか残らなくなり、一般意志は失われ、その決定は特殊意志にすぎなくなる。
この部分では、ルソーが「一般意志」と「特殊意志」の違いを解説しています。市民が十分な情報を持ち、互いに影響を受けずに意見を出し合えば、様々な意見の違いが集まって「一般意志」が形成され、健全な決定が可能であるとしています。しかし、徒党や派閥ができると、その結社内部では一般意志のような意志が生まれますが、国家全体から見ると「特殊意志」となります。このような派閥の力が大きくなると、本来の一般意志が失われてしまう、という警告をしています。
(東浩紀)ルソーは実は政党政治とか間接民主制というものをまったく認めませんでした。市民同士が議論をして、集まって、何か合意をとっていくということをやるというのは、ルソーの考えでは「よくないこと」なのです。では、ルソーの「一般意志」というものはどういうときに出てくるかとい うと、結論からいうと、みんながお互いに、まったくコ ミュニケーションをとっていない状態で、自分の意志だけをどこか抽象な空間に投げて、その抽象的な空間でそれぞれの「特殊意志」が集まって「一般意志」が生成す るのだ、という発想なのですね。たとえばハーバーマス流にいう、討議的な理性を駆使したり、言語的コミュニ ケーションを行ったりするという発想は、ルソーには一 切ないのです。 (東浩紀)この部分は結構謎めいた文章だと言われていて、この「一般意志」という 概念について、カントは「統制的理念」という努力目標みたいな感じでとらえています。また、ヘーゲルだと、 弁証法の果てに、「頑張ればいつか一般意志に到達できるかもしれない」みたいな話でしかないのです。過去の哲学者たちは、このように抽象な努力目標みたいなものと してここの部分を解釈してきたわけです。