「価値を新たに創造する行為」をわからない人
knshtyk なんかこう、気がついてしまったのだが、オリジナルであろうと志向しない人にとって、ものづくりは世の中に存在しているものの寄せ集めでしかなく、他者のオリジナリティも"世の中にすでにあるもの"としか認識できずオリジナルを毀損される心情を知らないため、剽窃しても良心の呵責を感じることがない
knshtyk この数年間、他人の成果を奪ったり自らの欲を満たすためだけに価値を消費する人間が思いの外沢山いることに違和感があり、ものづくりの本懐である「価値の総量の増加」をなぜ理解できないか問い続けてきたのだけどようやく腑に落ちた。彼らは"価値を新たに創造する行為自体をそもそも信じられていない"
knshtyk 他人が持っているものも何もかもが「どこかから来たもので世界にすでにあったものの組み合わせ」であると思い込んでしまっていたなら、それらを盗もう勝手に使おうが問題はなく、単に"使えるパーツをゲットした"という認識になる。この独特な認知のバイアスが根底にあるのだろう。そう理解した。
knshtyk オリジナリティは努力さえすれば比較的容易に実現が可能であり、新しい価値も労力を掛けさえすれば生み出せる。それこそが人間にとっての基本的活動である事実を彼らはまだ獲得できていないのだろう。"世界に対する過剰な信頼"が人間のもつ独自性とその背後にある努力を見えなくしている
knshtyk この10年ほど"資料がないと作れない"というある種の創造性に関する病を沢山の場面で目撃した。その傾向は益々加速しているように思う。ほとんどアッサンブラージュのようにものを組み合わせるだけで何かを生み出した気になるのは脈々と文明を築き上げてきた先人たちの努力を無為にする行為に他ならない
knshtyk 資料とは、学び咀嚼し理解して自分なりに方法を抽出する技能習得のための媒体であって、コピペするための部品ではない。情報により世界にはすべてが既に存在していると思い込んでいる人があまりに多いのではないか、私は彼らをそのように読解した。パズルを組み替えていくだけでは新しい画は生まれない