「データをして語らしめる」は「事実をして〜」ではない
私は「データをして語らしめる」ことが大切だと力説した。 「事実をして語らしめよ」とはのべなかった。それは、事実とデータとは、違うからである。 どう違うのか。第9図を御覧頂きたい。事実をわれわれは観察し、記録する。それがデータなのだ。そこでわれわれは、実は事実など知ることができない。知ることができるのは、データと、それを獲得するに至った方法・手段だけなのである。
https://gyazo.com/88da00ddf85f02b6bf4fac6ae7bfdc1d
...
観察および記録という二重の過程をめぐって、そこに方法手段が介在するからには、誤りは多少ともに免れない。あるいは、誤りの入り得る可能性を排除できないわけだ。したがって、決してデータ=事実ではない。極端にいえば、すべてのデータはうそなのである。われわれは事実を決して知り得ない。だから、「事実を知っている」などという傲慢な心を、まず捨て去るのがよい。この謙虚さこそ、科学的というにふさわしい態度というべきだろう。
すべてのデータはうそである。うそと承知でデータを使う。 しかもそこから、より正しい真実を割りだす。それが判断への道なのである。しかし、うそからどうしてまことが割りだせるのだろう。それは、見方を変えると、どのデータにもまた、多少ともに真実の面影が宿っているからなのである。 この話は面白いので後で整理する
この話自体も面白い
なぜ僕が「データ以外を追加してはいけないのでは?」という問いに「そうではない」と確信を持って答えられたのかというメタな問いも面白い
「データをして語らしめる」を「KJ法のラベルにデータ以外を追加してはいけない」「自分の考えを書いてはいけない」と解釈する人がいる
このテーマも考える花火したら良さそう
https://gyazo.com/ab09532fb8d7d51b9f149a0900321f71