Hatena2013-10-27
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*1382844642*「零戦 その誕生と栄光の記録」を読んだ。
海軍から「速くて長距離飛べて小回りのきく戦闘機を作れ」というムチャぶりをされて、それを何とかしようと創意工夫を重ねる話。だいぶ出来上がってきてから「その方針は正しくないのではないか」とか言い出す奴が出てきた話。「物さえできれば、設計の構想や実施のよしあしは証明される。われわれ技術に生きる者は、根拠のない憶測や軽い気持ちの批判に一喜一憂すべきではない。長期的な進歩の波こそ見誤ってはならぬ」という言葉はとても格好が良い。重量を減らすための斬新なアイデアを導入したり、重量を少しでも減らそうとカリカリのチューニングを行うあたり、エンジニアとしてはとても共感できる。
そういうエンジニアリングのレイヤーの話も面白かったが、一番印象に残ったのはもっと上のレイヤーの話だった。序盤ではパイロットが事故で殉職して、「◯◯さんが死んだ」と真っ青になっているのに、終盤では「ミッドウェーの大敗北で何百人の訓練されたパイロットが死んだ」と一山いくらの野菜のような扱いになっていることが。
序盤は零戦自体は圧倒的な性能を持っていたが、ボーキサイトと石油の調達経路を塞がれてしまうとか、アメリカがほぼ無傷の零戦を手に入れてしまったりとか、その結果、敵側に「零戦とは1対1で戦うな、2体で後ろをカバーしながら戦え」や「高高度から急降下してヒット・アンド・アウェイ」という零戦対抗ノウハウができてしまったりとか。そして終盤にかけて、アメリカが「打倒零戦」をうたってF6Fを量産し戦線へ投入し始めたり、日本側の後継機はリソースが足りなくてまだ完成せず、零戦に燃料タンクを追加したり、防弾設備を追加したり、自動消火装置をつけたりと今まで「当たらなければ大丈夫、防御を削って身軽に」路線だった戦闘機に防御を積み込み始めるとか、本土の爆撃が盛んになるとか、一機でも多く飛行機を作ろうということで国民に金属の供出をさせたりとか、そしてそうやって作った貴重な戦闘機で神風特攻を始めるとか…
そしてこの流れの中で堀越さんは、その流れを変える行動は何もできない。前半の自分の才覚で世界最高の戦闘機を作り上げるところと、後半の何もできずにいるところのギャップが身につまされる本だ。
*1382848543*「反哲学入門」を読んだ
哲学者の著者に編集者が口頭で聞いてまとめた本。著者は「同じ内容が何度も出てくる」ことを気にしていたが、編集者に「大事なことが何度も出てくるのは、むしろわかりやすいんじゃないか」と言われて、それもそうか、となったらしい。数学でも似たようなことがあるな。大事なことは何度も書けばいいと思うのに、なぜか同じ内容が1回だけ出現するようにしようと考えて、話の順番に悩んだりする。
まあそれはさておき、この本の口頭でまとめられた部分はとても読みやすい。
「どうして存在するのか」っていう哲学上の問いに対して、ざっくり「なる」と「作る」の2つの考え方がある。日本も古代のギリシャも、ものごとは自然に生まれ出てきて、そう「なる」ものだと考えられていた。一方、ユダヤ教は「創造主が世界を作った」という思想を持っていた。
ソクラテスは既存のギリシャ哲学の否定を繰り返したが、自身では新しい体系を作らず、その弟子のプラトンは、おそらくユダヤ教の影響で理想の「イデア」が存在し、現実世界はそれをかたどって「作られた」と考えた。プラトン以降、ヨーロッパではこの「作る」思想が強い勢力を持つようになる。その一つの理由に、キリスト教が自身の理論武装のために「自然」と「それを作った超越者」という枠組みを利用したことがあげられるだろう。
デカルトにおいても「理性」という形を変えた超越者が「考える」ことによって世界を作りだすという考えなので地続き。当時はガリレオが宗教裁判にかけられるような時代だったので、教会の考えと矛盾することは危険だった。人間の理性は「神的理性に後見され」ているから正しいという考え方をしていた。
デカルトから1~2世紀経って、カントは「神的理性の後見」を脱するべきだと考えた。それを指しているのが「啓蒙とはなにか。それは人間がみずから招いた未成年状態を脱け出すことである。未成年とは、他人の指導がなければ自分の理性を使うことのできない状態である」という言葉だ。神を持ち出して「理性だから正しい」なんていうのではなく、純粋な理性だけでどこまでのことが言えるのか、何を言うと言いすぎなのか、を考えたのが「純粋理性批判」とのこと。
で、プラトン以降の色々な哲学が、全部「超越者が作るから存在する」という点でプラトンの考え方を引きずっており、これはおかしいんではないか、と言い出したのがニーチェ。彼の最初の研究は「ギリシャ悲劇の成立史」で、その過程でプラトン以前の思想に触れる機会があった。また、当時はダーウィンの進化論が現れた頃で、生物が環境に適応するために自分自身を変えるなら、人間の認知機能もまた同様に環境に適応するように「なった」ものなのではないか、という考え方もあった。
彼は「より強くあろう、大きくあろう」という「力への意志」が、存在が今あるように「なった」理由だと考えた。「神」や「理性」といった超越的な存在を仮定する必要はない、その考えをキャッチーに表現したのが「神は死んだ」だということになる。
このあとハイデガーとナチズムの話、そして筆者の大好きなフッサールの話になるのだけども、どうもこの辺りから会話から起こしたものに筆者があとで書き足したり手を加えたりする量が増えたのか、とたんに話が細かくわかりにくくなり、唐突に「予定していた分量をはるかに超えてしまいましたので、残念ですがひとまずここで打ち切り」とか言って終わった。電子書籍で読んでいたので「残りページ数が少ない」という感触がなく、まだ話半ばかと思うような書きっぷりだったのでとてもびっくりした。
そういうわけでハイデガーとフッサールについてはよくわからないけども、ニーチェまでの流れはとてもわかりやすい本だった。
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