Hatena2012-09-02
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*1346576549*考えない練習
集中力が落ちた時の対策に、僕はアップテンポな曲を聞いたりカフェインを摂取したりという「刺激を追加すること」が多いけど、これは筆者に言わせれば苦(ストレス)を増やしている。心が平穏であることを願うなら、強い刺激を追加するのではなく既に感じているのに無視している感覚に注意を向けるほうがよい。たとえば、指がキーボードに触れている感覚に集中するとか、自分の呼吸に注意を向けるとか。集中の前にまず心を穏やかにする。
外部からの刺激などに心が無意識に反応して動いてしまう。たとえば自分のやっていたことの問題点を指摘された時に、怒りを感じて噛み付いてしまったりとか。人間はそういう生き物であることをまず認めた上で、それを怒りを撒き散らすのでも、抑圧するのでもなく、「ああ、自分はいま怒りを感じているんだなぁ」と見つめてスルーする。怒りはあくまで自分の心が創りだしたもの。
結局のところ煩悩との戦いは、自分の中に煩悩が沸き上がってくることを認識して、それを理性で受け流すことなんだな。例えば作業中にTwitterを見たくなって(欲)、見たら書いてあることに怒りを感じて(怒)、ついつい感情的な意見を書き込んだりしてしまう。こういうユースケースは今までは「気が散っている」とか「生産性が高くない」という言葉で表現していたけども、「心が穏やかでない」「煩悩に苛まれている」という捉え方も出来るんだな。
自分の心をコントロールすることが仏道のスタートでありゴールである、という言葉に眼から鱗。仏道の「正しい行い」八正道の最初の一つは正思惟、これはつまり「考えるべきことを考え、そうでないものを考えない」ということ、とか。ものを整理せずに溜め込むと、自分が正しく理解できていない「無明」が広がってしまう、そして考えてないふりをしてもストレスになっている、とか、他の本で学んだ概念や、自然に覚えた経験則などに色々な仏教用語が当てられていくのがとても面白い。
読みながらアタラクシアとか好きだったなぁ、と思い出した。
アタラクシア(希: Ἀταραξία、「静穏」、英語: Ataraxia)は、ピュロンやエピクロスが使った古代ギリシア語の専門用語で、心配事から解放された玲瓏な精神状態を指す。
自分にとっての幸せとは苦しみがなく穏やかであることなのかもしれないなぁ。
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