Googleのオフィス出勤推奨方針に見る大規模組織の意思決定の問題点
Claude.iconこの一連のツイートでは、Googleが週3日以上のオフィス出勤を推奨する方針に対して、以下のような懸念や指摘が述べられています。
少数派(リモートワークを望む人々)の生産性が下がる可能性があるにも関わらず、多数派の意向を優先することの問題点。
流行病の影響で始まった在宅勤務という「実験」の結果を十分に吟味せずに決定が下されたこと。 合理的で納得できる説明がないまま、あたかも合理的な決定であるかのように物事が進んでいること。 データに基づいて行動しているという幻想と、現実社会では外れ値を切り捨てつつ運営されていること。 外れ値を意図的に切り捨てる場合、説明責任を果たすべきであること。 方針変更を決断した人々が、その変更によって直接影響を受けない立場にあること。
一方で、すべての決定をデータに基づいて行うことは現実的ではなく、ある程度の割り切りは必要だという指摘もあります。ただし、そうした割り切りを行う際には、影響を受ける人々への説明責任を果たすことが求められるでしょう。 ---
hikalium 週3日の出社をより厳格に推奨する会社の決定に私があまり納得できない理由、マイノリティに対する抑圧と全く同じ構造だからだと思っている。「hikaliumさんはなんだかんだ週3日以上来てるし、何も変わることなんてないよ!」と言う人もいるが、多数が良ければ少数の生産性は下がってもいいのだろうか。 hikalium そういった残酷さを認めた上で「このデータによれば会社の生産性は上がるので、個人での上下はあれど、それも織り込み済みだから協力してね」と言うならまだしも「やっぱりオフィスで発生する些細な会話は大事だよね〜みんな来て!」というお気持ちで話を進めるのはまさに無意識の偏見ではないだろうか hikalium 私の頭の中のもうN人が「些細なことに頭を使って生産性が落ちるくらいなら仕事に集中しろ」「こんなことを書いている暇があったら他のことをしたら?」「自分で自分の首をしめて楽しい?」「あまり文句言わないほうが良いよ、この環境を失いたくはないでしょう?」等と言ってくるが、話半分に聞いている。 hikalium 自分に火の粉が降りかからないなら、状況に物申したくなってもとりあえず黙っておく、というのは、生存戦略としては有効な技だしそれを選ぶのもひとつの生き方だが、私はそういう人々で構成される社会に割を食ってきたし、我々がこんな有り様だったらすべてに絶望せざるを得ないのでつらつら書いている hikalium 流行病の影響で入社初日から完全な在宅勤務を1年半以上してから段階的に出社するようになった身としては、どちらも良し悪しがあるのは理解できるし、実際在宅で苦しかった場面もあるけれど、意図せずとも発生したせっかくの実験結果を十分に吟味しないで行われたように見える決定が下されたのは残念。 hikalium 一番つらいのは、十分に合理的で納得できる説明がなされていないのに、まるでこれが合理的な決定であるかのような雰囲気で物事が進んでいること。もちろん私の理解が足りないだけなのかもしれないけれど、もしそうでないなら、データに基づいて行動していたはずの我々は一体どこへ行ったのだろうか…。 hikalium まあ、データに基づいて行動しているというそれ自体が幻想なのかもしれない。実際、あらゆる決定の一挙手一投足をデータに基づいて決めるのはコストがかかりすぎるし、現実的でない。だから、えいやっと決めてしまうのも時には必要だと思うし、現実社会はそうやって回っている。外れ値を切り捨てつつ。 hikalium もし外れ値を意図的に切り捨てて他のメトリクスを達成しようとしているなら、それは明文化して説明責任を果たすべきだと思う。もし切り捨てていることにすら気づかないのだとしたら、それはとても悲しいが、指摘に応じてそこから再検討すればよい。それでもだめなら、あまり未来はないのかもしれない。 hikalium あと、方針変更を決断した人々は、その方針変更によって直接影響を受けない人々である、という点もつらいところだ。自分が対象とならないルールを他者に強いることの滑稽さに気づけないほど、組織が大きくなってしまったのか、それとも意図的に無視しているのか、いずれにせよ、そこには深い溝がある。