身体能力においてのシンギュラリティ
kojinoshiba_jp 身体能力においてのシンギュラリティはとっくの昔にあったので、その後の身体能力の扱われ方に知的能力のシンギュラリティのヒントがある。例えばマラソンは戦争の勝利報告に必要な能力として実践されてたが、今はその機能性(早く情報を伝達するのは電話やメールのほうがいい)より行為そのものの意義を追求して行われる。 知的活動もどんどんそうなる。ボードゲームなんかは既にそうで、勝つためであればAIの指示を聞けばいいものの、それをしないのはそこに行為そのものの意義を感じてるから。学問もそうなってく。みんな社会人アマチュア数学者みたいなノリで元々学者だった人も行為としての数学を楽しむようになる
kojinoshiba_jp 行為そのものの意義を感じる知的行為とは真善美があるような活動だと思う。道案内とかは機械がやっても人がやっても変わらないから淘汰されてく。デザインとかは真善美の追求として行われる場合においてそこに行為そのものの意義が残り、それを追求する人間への尊敬や憧れや関心も残り続ける