社会的学習能力と神話の創発
tanichu 「科学論における集合的予測符号化仮説(記号創発システム論に基づく)は社会構成主義と科学的実在論を分散的な自由エネルギー原理・能動推論の枠組みにより包摂する」……と思っている 先程こちらの動画を見ていて、少し妄想を膨らませていた所、谷口先生さんの投稿が目に入り、今自分が考えていたことと、少し重なるのではと思い、メッセージを書いております。
https://www.youtube.com/watch?v=7-1LtBOzYFo
動画の内容としては、我々人類はなぜ、他の霊長類との生存競争を勝ち抜き、他の生物を圧倒できるようになったのか。
オランウータンとチンパンジーと人類を比較した実験で、空間認知能力、計算能力、因果性認識能力、社会的学習能力を比較すると、4つのうち3つはそこまで大きい差は無いというのがわかりました。ただ、一つだけ人類が突出して高い能力がありました。
社会的学習という言葉の解釈は多義にわたりますが、一般的には「他者の影響を受けて、慣習や価値観、そして行動を習得していく学習」とされています。 つまり、我々人類の能力の中で特筆すべき点は、脳のサイズや、認知能力それ自体の優秀さではなく、他者の影響を受けながら、慣習や価値観、そして行動を習得していく内部モデルの更新と学習を、エージェント間で相互に行うことが出来た事で、発展してきたということなのではないかと解釈できそうだなと考えています。
少し雑な発想ですが、自由エネルギー原理的に考えると、環境に対する予測能力が高い(Surprisalを最小化できる種)は、生存確率が高くなりやすいのではないか。
その後さらに人類は、言語や文字を発明したことにより、自分の持つ知識や価値観、習慣を共有し、長い時間軸で仮説と検証を回しながら、子孫に残してきたことで、人類全体でメタ学習を行って、知識と知恵と文化を後世にストックし続けてきたのが複利的に効いているのではないか。
これが集合的予測符号化や自由エネルギー原理、進化論、ゲーム理論等の異なる分野とも重なるのではないかな〜等と妄想を膨らましておりました。
というのがこの動画を観て感じたインスピレーションでした。
お忙しい所、突然の駄文長文失礼しました
とても良い動画ですね!
まさにそう思います。
集合的予測符号化は社会レベルでの自由エネルギー原理としてこれを数理モデル化するものであり、まさに個体に還元にされない、このような想像と記憶、架空の構造としての物語や規範を生み出し、従ってしまうことによる社会レベルでの適応にこそ人間の知能の本質があるのだと思います。 社会レベルで(集合的に)適応的であるためには、利己的であるだけではだめで、記号(言語、物語)にどうしようもなく影響されてしまう側面が不可避に必要になってくると思います。
「個体としての弱さが集団的な強さ」みたいな側面はありますよね。
ただそういう側面が生み出してしまう、集団としての排外的な側面や、プロパガンダの恐怖、権力者が持ってしまいがちな問題、なんかもこの動画はしっかりとカバーしていてとても示唆的でした。
折に触れて見たいくらいの感じですね。ありがとうございます😊
以下は動画を見つつ思っていたこと。
(動画の内容解説ではありません)
人間の知能の本質をあらためて認識し、規範や物語、神の概念を含んだ記号創発がやはりまだまだ探求すべき問題であり、そしてまたその説明原理/数理モデル化としての集合的予測符号化の筋が間違っていないだろうという思いを新たにした。
社会性とか共感とか模倣とかの言葉はそれぞれに大事ではあるが、それらのダイナミクスをパーツとして捉えるシステム論がなければ世界・知能の認識は一歩前に進まない。その根本には記号の持つ恣意性があり、その基盤に人間のもつ表現学習や能動推論の能力がある。のだと思う。
いろいろな良い要素が含まれているけど、権力者がソシオパス成分をもったり、共感がネガティブな効果を持ったりとか表と裏に言及しているのもいい感じだなぁ、と思いました。 heat_1nt 谷口先生に反応を頂けたので更にもうひとつ考えていたことを書きます。 現代では、宗教は安心のサブスク。
なんて言われたりするが、自分が “神“という概念について考える時、僕はいつもRADWIMPSのおしゃかしゃまという曲の歌詞を思い出す。
“僕らはいつでも神様に
願って拝んでても いつしか
そうさ僕ら人類が神様に気付いたらなってたの 何様なのさ
僕は見たことはないんだ
あちらこちらの絵画で見るんだ
さらに話で聞いてる神様はどれもこれも人の形なんだ“
2歳の時に自分の両親が離婚し、親権を取った片親の母が精神疾患を患い、経済的にも困窮した母子家庭に生まれた私は、周囲の同級生達と比べると明らかに自分起因では無い要素で理不尽に傷つけられることが多かった。
幼少期から辛い現実に何度も直面し続けていた当時の私は、人生に対してあまり幸福だとは感じられていなかった。もし本当に神がいるなら、なぜ、そこまで悪いことをしていない俺にこんな仕打ちが待ってるんだろう。一家団欒という普通のことが手に入らない。当時の自分にとっては周りの人が享受している当たり前が欲しいだけだった。幼少期の自分の素朴な欲求は、別にそこまで強欲なものではなかったと思う。そしてもし神とやらが本当にいるのであれば、なぜこの素朴な欲求を満たしてもらえず、この辛い状況から早く救ってくれないんだろう。とずっと考えていた。
そんなことをグルグル考えていた中学時代の私は、先程のRADWIMPSの歌を聴いた時にとても共感した。その時に神とは結局何なのだろう。神とは、昔の人類が作り出した壮大なフィクションなのでは無いか。等とさらに考えるようになった。
オランウータンやチンパンジー等は、祈らないし、恐らく神という存在を信じてはいない。なんならその概念すら理解できないかもしれない。
では結局、神とは何なのか。なぜ生まれたのか。
人類の歴史を遡ると、そもそもただ生存すること自体がとてもハードで、農作物の不作や、自然災害、疫病、戦争、家族や愛するものの死、ただ生きるというだけで、あらゆる不運が待ち受けていた。ただ、科学が発展する以前の人類は、その不運に因果性や解釈性を見い出せなかった。
目の前の現象や事象に対して、解釈性も因果性も見い出せないのであれば、予測が出来ないため、人類はただ待ち受けている不運に耐えるしかなく、リスクを減らすアクションを取ることができない。
そこで人類は、神というあらゆる事象に対する因果、解釈を与えてくれる存在を発明した。
そして、神という発明を長く後世に引き継ぐために、聖典を作り、エージェントの内部モデルに強く学習させるために、祈りや儀式を発明したのではないか。
自由エネルギー原理的に言えば、神とは、あらゆる因果関係が不明で無秩序に見える現実世界に対して、surprisalを最小化してくれる、さらには行動規範を定めてくれる存在だったのでは無いか。と考えている。
そしてそれが集団の生存に対して有利に機能したのではないか。と考えている。
ただ、これは神や宗教批判をしたいわけではなく、あくまで神という存在は複素数のようなもので、虚数でもあり実数でもあるのだと思う。
他の例で例えるなら、紙幣には本来なんの価値もないが、人類全体がそれを信じている場合は、そこに価値や機能が生まれるのと同じように、“神“も多くのエージェントに共有されその集団が信じている時のみ、価値と機能が生まれるのだと考えている。