知識体系化の意義・意味が変わるのでは
u_g_cccc どうせ要約されるしって前提で文献(広い意味で)は書かれるようになって文量として短くなってゆくのでは そうなると知識や情報を体系化するということの意義/意味が根本から変わるのでは これは面白い切り口
実際、編集者付きで一般向け書籍を書くと、著者が最初に買いた文章に編集者から「これでは一般の読者はついてこれないからもっと加筆して」みたいなフィードバックが来て加筆をすることがしばしばある
一般読者は「わからない概念があっても検索して調べたりしない」という想定になってるように思う
たとえばエンジニアの知的生産術の初期の原稿では「ニーチェ」と書いていたものを、これではわからない可能性があるからと哲学者 Friedrich Wilhelm Nietzscheと書き換え、その上で「いやこれ読めなくてニーチェだとわからない人いるのでは?」という議論になって「(ニーチェ)」と書き足した
もっと良い例としてはファインマンがある。僕個人としては「ファインマンに説明はいらない、わからないならググれば良い」と思ったが、編集者との議論の結果ノーベル物理学賞の受賞者 Richard Phillips Feynman(ファインマン)になった
これは例として紹介しやすい簡単な置き換え事例を紹介しているが、もっと長い文章に関しても「これではわからないのでもっと解説が必要だ」となって書き足しをしている
https://gyazo.com/8f1741747e580ddb5b320921e78f4c22
こういう一般向け加筆に大きな労力が使われているので、そういう一般向け制約がないブログ記事などではもっと少ない労力で少ない分量の記事が書かれる
これを「抽象度が高くてよくわからない」となる人も多い
技術的メモをブログに個人的メモしている状況は、新しい知見を、その知見を得る直前の自分にわかるように書くので、その領域に到達していない人にとっては意味がわからない
一方で同じ状況に陥って検索をした人にとっては「まさに自分の置かれている状況を一方先に進める文章だ!」となる
Scrapbox以降、抽象度の高い記述と、それに関する具体的な話が異なるページに置かれてリンクでつながれるという形の知識表現形式が行われるようになった
こうすると抽象度の高いページはいくつもの具体例のページで言及され再利用され、何度も見返すのでどんどん精緻になっていく
それぞれの具体例のページでは抽象ページに書かれてる内容を繰り返し説明するかわりに、リンクをして、「詳しく知りたいならリンクをたどれ」とする
こうすることによって著者はより労力すくなく思考の伝播ができる
ここまではLLMが登場する前にすでにおこっていること
「分量として短くなっていく」はすでに起こっているし、今後もそうだろう
「紙の書籍」では、キーワードをタップしても説明が出ないし、そのキーワードの他の出現場所を知ることもできない
電子書籍では一部の内容に関してはリンクで表現されたり、キーワードの出現位置に関しては検索で見つけられたりKindle X-Rayのような機能があったりする
何でそれが普及しないかというと、リンクをつける作業に対して出版社の側にインセンティブがないから
紙の書籍が2000円なら、電子書籍は検索やコピーができてより便利なので2500円、著者の整備したリンクもついてるとさらに便利だから3000円……という世の中になってない
なってないので出版社としては確実に売れるフォーマットでだすインセンティブがあり、新しいフォーマットにチャレンジするインセンティブが低い
これは鶏と卵だよなと思う、読者の側も買う手段が存在しないものは買えない
出版社は「読者は慣れ親しんだ紙の本の形でないと読めない」と考えている
知識伝達のパッケージが、人間が直接読む「紙の書籍」の形ではなく、LLMが読んで人間からのリクエストに応じて解説を生成するものになると「想定読者」の水準が変わる
最終的にLLMが出力した解説を読むエンドユーザの人間が「想定読者」なのではなく、解説を生成するLLMが想定読者になる
著者はLLMがわかる用語は解説する必要がない、エンドユーザがその用語をわからない場合にはLLMが解説を生成する
https://gyazo.com/b583df1be2a3912c208742993ad1887a
https://gyazo.com/fedac9073902defa7a3f7d63543c2daa
『ワーク・シフト』の著者Lynda Grattonは、Wikipediaなどの「知識を提供するサービス」が現れると、そういうサービスが提供する知識は誰でも手軽に入手できるので、その知識を知っていることの価値が暴落すると考えました。そして、そういうサービスが提供しないような知識を持たなければ市場で生き残れなくなると考えました。
私は情報提供サービスが現れることで、著者が「こんなことは紙面を割いて解説しなくてもインターネットで検索すればすぐにわかることだな」と考え、読者に期待する知識の水準が上がると考えています。
この本を書いている 2017 年現在、Wikipedia の記事の質は日本語版と英語版で大きな差があります。もしこの影響で英語圏の著者が書く本の想定知識水準が上がると、日本人がその翻訳書を読んだ場合の理解にかかるコ ストが高くなってしまいます。日本人が英語の Wikipedia で基礎的なこと を学ぶ必要に迫られるのか、機械翻訳が差を埋めるのか、どちらになるかは私にはわかりません。
「英語の Wikipedia を含む膨大な文書で基礎的なことを学んで、しかも日本語を話せるソフトウェア」とのチャットサービスが爆誕した(ChatGPT, 2022)
まとめ
"文量として短くなってゆく"はすでに起こっている、引き金はLLMではなくハイパーテキストとインターネット 紙の書籍においてあまり変化がみられないのは、慣れたフォーマットを好む読者と、「読者は慣れたフォーマットを好む」と考えている出版社の相互依存によって変化が妨げられているだけ LLMの発展によって、紙の書籍とは異なる教育システムが生まれるだろうし、その教育システムのためのデータを作る「著者」は、紙の書籍のフォーマットとは違った形での知識のアウトプットをするようになるだろう