流出説
プラトンの『パルメニデス』に説かれた「一なるもの」(ト・ヘン to hen)を重視し、語りえないものとして、これを神と同一視した。 杜順は悟りの世界を3つの段階に分けた、澄観はそれに迷いの世界「事法界」を加えて4つにした この「事」は個物のこと
すべての個物は固定的実体を持たない、という悟りを開いた世界が「理法界」
この「理」は「永遠無限絶対の存在」
個物は理が枝分かれして現れたものであり、さまたげなく理が事になり、事が理になる
この悟りを開いた世界が「理事無礙法界」
「礙」は障碍の碍の正字で「さまたげる」「さしつかえる」の意味
上記の悟りを踏まえて「事」の世界に戻ってきて「すべての個物も互いに移り合う存在だ」と悟りを開いたのが「事事無礙法界」 華厳の言葉でいうなら「万物=事」は永遠無限絶対の存在である「一者=理」から「流れ出し/枝分かれし」たもの
流出説では「流れ出した」と考えてるから、個別の万物が元の一者に戻ることはない
華厳では「枝分かれした」と考えているから根っこではつながっている
個別であるか一つであるかは観測範囲の問題に過ぎない
だから考え方を変えるだけでさまたげなく「理」に戻すことができる
この悟りを開いた世界が「理事無礙法界」
一者は有限の存在である万物とは別の存在で、一者自身は流出によって何ら変化・増減することはない。あたかも太陽自身は変化せず、太陽から出た光が周囲を照らすようなものである。光から遠ざかれば次第に暗くなるように、霊魂・物質にも高い・低いの差がある。
また、人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。 一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。[エネアデスVIの第11節] あっ、エロースとエクスタシスによって一者と合一してたnishio.icon
理事無礙の悟りじゃん
ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである。プロティノス自身は生涯に4度ばかり体験したという。また高弟ポルフュリオスは『プロティノスの一生と彼の著作の順序について』(『プロティノス伝』と称される)の中で、自らは一度体験したと書き残している。