数理政治学序説
stepney141 >> 数学を集中的に勉強してきた数学者は、よほど論理的思考にたけているはずである。ところが事実は必ずしもそうではない >> それは数学の論理と「世の中の論理」とが違うのに、数学者が数学の論理をおしとおそうとすることによる
TLのアカデミア炎上を見て感じる何かがここで言語化されてる気がする
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関法第四四巻第四・五合併号
一八六 (七四二)
これも数学者である藤原正彦博士は、同僚である数学者たちを観察した経験にもとづいて次のように語っている。
「数学を集中的に勉強してきた数学者は、よほど論理的思考にたけているはずである。ところが事実は必ずしもそ
うではないようなのである。 「正当な推論を行なうこと」に秀でているとは、長年にわたる数学者との交わりから判
断しても、とても思えない。 数学科は教授会のお荷物という声を聞くこともときどきある」(藤原「数学者の休憩時間」
一九九三年、 九五ページ)。 それは数学の論理と「世の中の論理」 とが違うのに、数学者が数学の論理をおしとおそう
とすることによる、という。 数学の論理の場合、論理ステップの鎖が非常に長く、しかもその推論の正当性が「いさ
さかも減少しない」。 これに対して「世の中の論理」は論理ステップの鎖が短く、「各ステップで必ず正当性が減少す
る」。「論理の正当性は状況の関数である」。 状況の不確定性によって推論の正当性は論理ステップの鎖が長くなるに
つれて急激に正当性が減少する。「このことをすべての人々は無意識にせよ気づいているから、あえて短い論理ス
テップしか用いないに違いない。数学における前提条件がごく単純であり、しかも常にそのすべてが明示されている。
・数学化とは単純化であるといってよい」(前掲書、九六一九八ページ)。この単純化が数学者の癖となり、それがひ
いては「数学者の論理が世の中で通用しない理由」となる(前掲書、九九ページ)。
ついでながら、藤原博士は、以上のような事情があるため、数学教育の目的は論理的思考の育成にある、というよ
うに考えることには賛成できないとする。むしろ数学教育の目的は、第一に数感覚ないし数量的感覚の育成、第二に、
物事をじっくり「考える喜び」の育成、第三に、「数学美への感受性」の育成を挙げている。 そして、 「数学美」を、
一つには「論証という厳密な手続きにより構築された、堅固な構造美」、二つには「きわめて単純簡明な定理や法則
が、無数の入り組んだ現象を統制している姿」の美しさであるとされている(前掲書、一〇一一一〇四ページ)。これは、
山川雄巳. “数理政治学序説”, 關西大學法學論集, 44巻, 4-5号, pp. 737-789, (1995-01-20).