性起思想
道元が基づいた性起思想 石井公成氏(1/2ページ):中外日報
1980年代後半から90年代にかけて、駒澤大学仏教学部を起点とする「批判仏教」が盛んとなった。発端は袴谷憲昭教授が86年3月に「道元理解の決定的視点」と題する論文を発表したことだ。この論文は、道元は本覚思想を生涯にわたって批判し続けたのであって、これこそが道元研究の決定的視点だ、と断定していた。
如来蔵思想は、命あるものはすべて仏の智恵を具えているとする説だ。それが日本で独自の展開をした本覚思想では、人はもともと仏であって、目の前の事象はそのまま悟りの世界だと説くまでに至った。
筆者が着目し、昨年、「道元をインド以来の仏教史に位置づける」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』第56号)、「『正法眼蔵』の基本構造―『法華経』と『華厳経』の役割に注意して―」(『駒澤大学禅研究所年報』第35号)で着目したのが、『華厳経』の性起品が説く性起思想だ。
駒澤大名誉教授 石井公成氏
性起品はインドでは単行経典として早くから流布しており、如来蔵説や仏性説に影響を与えたことが知られている。その特徴は、如来の智慧はすべての命あるものに浸透しているものの、命あるものは煩悩に蔽われていてそのことに気付かないため、如来は教えを説いてそのことを命あるものたちに知らせ、彼らを如来と等しい存在とする、という点だ。
つまり、如来蔵説・仏性説では、命あるものの身体の中に煩悩に覆われた形で仏の智慧がある、という点を強調するのに対して、性起思想では、如来の側に力点があるのだ。そこでは、如来の智慧が浸透している命あるものたちに如来が働き掛けて如来と等しいものとし、如来となった彼らがさらに……、という循環が重視される。
ないところにタネを植えるのではなく、あるが覆われているので取り除く(revealする)
道元は『正法眼蔵』の随所で、智儼の主張を思わせるような形で「発心・修行・菩提・涅槃」を強調している。一般の禅宗のように、「見性すれば、つまり、自らの仏性を見れば終わり」なのではなく、また、本覚思想のように、自分はもともと仏であるとするのでもない。如来の智慧が自らにも及んでいるからこそ、過去の仏、とりわけ釈尊のように、自らも「発心・修行・菩提・涅槃」の道を歩み続けねばならない、とするのだ。
これもある種の誤った2だな
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