失礼さを減らす
要約: 歳を重ねるにつれ、他者への失礼さを減らす意識が重要。
経験を積むとネガティブな視点に気づきやすくなるが、それに染まらず、意識的に失礼さを減らす姿勢を持つべきである。
それはそれで「世の中ナメくさっとる」から、油断すると勝手に失礼さが増してしまう。 意識的に、失礼さを減らすぐらいの姿勢じゃないと
VoQn 年齢を重ねるごとに、気をつけるべきは「己の失礼さをより減らし続けること」であるかもなぁと思うようになり。 個人攻撃(人格攻撃)しない、侮辱や暴言をぶつけない、皮肉や嫌味で気分を害させない……
「それはダメな判断だった」と批判するのは【その人が認め過ちを改めればソレ以上は不問】で収まる。
「愚かな奴だからそんなことをする」と中傷するのは【それを仮に改めても、対象への評価は変わらず】ゆえに誹謗であるし、事態を善きに動かさないのだ。
VoQn 文字の綴りは似ているようで「バカなことをするな」と「このバカに任せるな」とでは、まるで違うということをデリカシーとして学ばなければ、人は簡単に尊大で傲慢な他者を威圧する怪物に変わってしまう。 VoQn (何かの行政・法改正有識者会議などの名簿を見て)「〇〇(人名)を見て、そっ閉じ」といった振る舞いも、一見端的で直截のようで、ダメなんですよ。 具体的な将来への課題でなく参加している面々に気がつけば注目がすり替わっている。
VoQn そうやって「誰であるか」ばかりを善悪と優劣の判断材料にし続けていると、いつか目の前で確かな善徳と優美を成した相手すら、素直に認めることができなくなってしまう。 優れた実績は「若いゆえ」「熟練の」「女性ならでは」「外国人の視座で」と様々な偏見を添えて真っ直ぐに捉えれなくなる
VoQn トシを重ねて目が肥えて、うなだれるような情けない話も不条理も憤るような醜態も、見れば見るほど、衆愚論と厭世観と性悪説に自我が染まってしまう。 それはそれで「世の中ナメくさっとる」から、油断すると勝手に失礼さが増してしまう。
意識的に、失礼さを減らすぐらいの姿勢じゃないと