努力礼賛主義
kmizu
ここにきて「努力礼賛主義」が改めてあちこちで見られるのはとても悲しいことだなと思うのです。
だって「
大人社会
」は元々
努力
なんて評価してこなかったじゃないですか。努力したが結果を出せなかった人への怨念に「結果出せなかったから仕方ないね」というのが大多数の人の評価だったはず。
生成AI
によって「実は努力礼賛主義だったけど、たまたま自分が結果を出せる側だったから努力を足蹴にしてた」人が多数いたということが可視化されたということなのかなと。
nishio
「努力礼賛主義だった」のではないのではないか?本当に努力に価値を認めてるなら
今後価値の増えるものを獲得するための努力
をやるはず。そうではなく「
既に持っているものの価値が失われる
ことを不愉快に思っているが、回避手段が見つからないから不満」なのでは。