井筒俊彦「意識と本質」
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西洋哲学では本質を普遍的で抽象的な概念としてとらえるのに対し、東洋思想は個体的で具象的なものにこだわる傾向にある。 井筒はこの違いを、「普遍的本質」と「個体的本質」という概念で表現した。
芭蕉とリルケは、「マーヒーヤ」を超えて/否定して「フウィーヤ」につかもうとしたが、その態度に違いがあった。 芭蕉は「マーヒーヤ」を否定せず両立させたのに対し、リルケは「フウィーヤ」だけにこだわった。そのためリルケは言語表現の困難に直面した。
井筒自身は、「マーヒーヤ」を中心に据えつつ、「フウィーヤ」との関わりを考察する立場をとっている。
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アリストテレスの『形而上学』における個体(τόδε τί)の概念は、単なる個別者(individuum)ではなく、普遍的な性格(τί)を伴った複合的な概念だと論文では指摘されています。
個体の生成においては、質料による個別化と形相による種化(specificationの)2つの働きが関与しており、この2つは不可分の事態を成していると解釈されています。 具体的には、生成の質料となる個体(例:この木)は、生成物(例:この箱)に個別性(これであること)を付与すると同時に、自らは個別性を失い、普遍的な性格(木)として生成物の定義(種的形相)の一部を構成すると説明されています。
つまりアリストテレスにおいては、質料と形相の両者が協働して個体の個別性と普遍性の両面を成り立たせているのです。
これは井筒の理解とも通じるところがあります。井筒は東洋思想の文脈で、「個体的本質」と「普遍的本質」の両立ないし同時成立の可能性を探りましたが、アリストテレスもまた、普遍と個別の二面性を不可分のものとして個体のうちに見出していたと言えるでしょう。 西洋と東洋の古典を通じて、本質の個別性と普遍性の問題は哲学の重要な課題であり続けていることが分かります。ご紹介の論文は、この問題についてのアリストテレスの見解を明快に説明していて大変参考になりました。
スピノザ『エチカ』における個物の本質――第二部定義二を中心に
claude.iconスピノザの個体論については、添付の秋保亘氏の論文「スピノザ『エチカ』における個物の本質」が詳しく論じています。
スピノザは『エチカ』第2部定義2で「或るものの本質」を定義していますが、この定義が個物の本質の一般性を示すのか、個別性を示すのかについては解釈が分かれています。 秋保氏は、この定義そのものからは本質の個別性や一般性を直接読み取ることは難しいとした上で、定義が実際に使われている三つの命題(E2P10, E2P37, E2P49)の議論を丁寧に分析しています。
その結果、この定義は文脈に応じて本質の一般性、個別性、肯定性といった異なる側面を照らし出しており、特に個物の本質としてのコナトゥス(自己保存努力)の内実を明らかにしていると論じています。
スピノザにとって、個物の本質は一般性と個別性の両面を含む複合的なものであり、それが個物の現実的な在り方を規定していると秋保氏は結論付けています。個物はそれぞれ固有の本質を持ちつつ、同時にその本質の肯定性ゆえに自己の存在に固執するというのです。
この論文は、個体の本質をめぐるスピノザの見解の独自性と複雑性をよく捉えていると思います。普遍と個別の二項対立では還元できない、個物の本質の多面性をスピノザは提示しているのだと分かります。