サンユッタ・ニカーヤ 6.1.1
サンユッタ・ニカーヤ 6. Brahmasaṃyuttaṃ 1. Paṭhamavaggo 1. Brahmāyācanasuttaṃ 要約
この法は理解しにくい
欲にまみれた人に理解することは不可能だ
もし私が法を説いて他の人が理解しなかったら、私にとって疲労であり、苦悩である
だから進んで説法するのではなく、退いて静観する
ブラフマーのセリフ
ああ、世界が滅びる
法を説いてください
まだ目が塵に汚れていない人もいる
ブッダ
ブラフマーの懇願を聞いて世界を観察した
知恵の目が煩悩の塵に汚れていない者もいる、ひどく汚れている者もいる
生まれつき資質の優れた者も、劣った者もいる
不死を得るための門は開かれた
耳を持つものは聞いて己の盲信を捨てよ
ブラフマーよ、私が法を説かなかったのはそれが人々の身を傷つけると案じてのことであった
解説
この話を不快に思ったり不都合だと思ったりする人もいるようだが、これが書かれたのは事実
実際にどういうやりとりが行われたかはもちろん不明
まずブッダは「自分が理解した法則を、欲にまみれた人が理解するのは不可能だ」と考えた 制御できないことを制御しようとすることから苦しみが生まれる、という考えが仏教の基本法則
だからブッダは「説法はしないでおこう」と考えた
この時点ではブッダは自分以外は全員理解できないと考えている
ブラフマーが理解できる人もいるから説いてほしいと懇願する
ブラフマーに言われてブッダは、自分以外にも理解する可能性のある人がいるかもしれないな、と考える。
2018年の僕から見ると恐ろしい表現だが「生まれつきの資質」に差があるとまで言ってしまう
「耳を持つものは聞いて」
つまり耳を持たない者も存在すると考えているわけだ
「理解できない人に理解させようとすることは苦しみを生み出す」という考えは変わっていない
耳を持たないものに無理に聞かせようとしないことで苦しみから解放されている
最後の一行がなんのためにあるのかは僕はよくわからない
理解する能力のない人に法を説くことがその人を傷つけるということか?
自分の苦しみを避けようとしていたら、それは世界のためにならないと言われて、考えを改める話
とても人間的
ブッダを無謬の神格化したい人にとっては都合の悪い話
しかもブッダは全ての衆生が救われるとは考えてないし、悪いことには「生まれつき資質の劣った者」とまで言ってしまってて、これは一般大衆向けの宗教をやる上では非常に都合が悪い