なぜなめら会議にいるのか
なめら会議3に参加した首藤 一幸先生から「西尾さんがここにいるの不思議、なぜ?」と聞かれた
質問としては「西尾さんはあんまりWeb3の人という感じではないけど」というニュアンスだったような気がする
けど、そもそも僕の認識としてはなめら会議を「Web3の会議」と認識していない
名前の由来になってる「なめらかな社会とその敵」はWeb3の前から存在してたわけだし
首藤先生とこの学生さんが発表してたブロックチェーントリレンマはWeb3なのかも知れないけど
それでも僕の中では「Web3」というより「ブロックチェーンの数理的解析」という印象
miyabiさんたちの発表にWeb3の要素はない
シンボル創発とかの話
濱田 太陽さんのFunding the Commonsも、別にWeb3の縛りはないよね
アルゴクラシーも、実装がWeb3である必要はないよね
Web3の人たちが新しい「世界コンピュータ」で「新しい統治」を模索してて、その中の一部の人は「今の政府とかコミュニケーションとか解体して、Web3上の市場メカニズムで置き換えたらいいんじゃない?」と言ってて親和性があるのかも知れないけどな、というくらい
「なぜ」という問いには「なぜ参加するようになったか」と「なぜ今後も参加するつもりなのか」の解釈がある
なぜ参加するようになったのか
tkgshnがPlurality Tokyoに僕を誘って、
そこに参加したらその場にいた「なめらかな社会とその敵」のファンの若い人たちが鈴木健さんにサインをもらったりしてて「なめ敵会をやろう」という話になった
なめ敵会のきっかけ
プロレスしてて超面白い: tkgshnの鈴木健批判と和解
僕はPluralityに興味を持っていたので、Pluralityのイベントに来てたような人とKeep contactするイベントがあるならと初回から参加した
その後、鈴木健「Pluralityとなめ敵には家族的類似性を感じる」を受けて、Pluralityに対して親和性の高いコミュニティだと認識するようになった
なぜ参加し続けているのか
初回なめ敵会が面白かったからだな
その面白さが何かは、この一言に尽きる
鈴木健「手を動かしてモノを作る人がこんなに集まったのがすごい」
「実装なき思想はもういらない」のカルチャー
僕にとってこのイベントは未踏の成果報告会のようなもの
別の表現をすればこの場はアーリーアダプター集団
新しいものを積極的に学んだり作り出したりする人の集団なので僕にとっての学びが大きい
存在に気づいていなかったものに気づく機会になる
盲点に気づく
まあ「Web3関連技術がこんなに発展していると気づいていなかった」ので、結果的にWeb3について学ぶ場になってる
ネットで検索しても良い記事と良くない記事を見分けるスキルが身についていなければ学ぶことができない
詳しい人が詳しくない人に教える場も、教える人を信用できるかわからない
詳しい人が詳しい人と議論しているのを傍受するのがよい(ただしわからない単語だらけなので後で調べることが必要になる、CBDCとかフィアットとか)
なぜ今後も参加するつもりなのか
今のところまだ面白いから
Kenさんも自分の社会資本を使ってつながると面白そうな人を呼んだりしている
社会資本での拡大再生産
将来予想としてゲートのない有益な場は荒らされるから価値が減衰していく可能性が高い
その時には良いものを移動させることが行われだろう
新しい土地に連れていってもらえるように場を富ませる人だと認識されていたい
学んだことを整理してまとめページを作ることは自分にとってもコミュニティにとっても有益だと思ってやっている
Kenさんが「東さんとか成田さんを呼ぶことは可能だが、多分呼ばない方がいい」というようなことを言ってて、それは多分「手を動かさない消費者」が群がってきてこの場が食い荒らされた牧草地みたいになってしまうことを危惧してるんだ